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■ 最終話:立ち上がれ男たちよ! 日常という名の最終決戦

 地下の第4会議室は、完全なる沈黙と、底知れぬ絶望の海に沈んでいた。

 無機質な換気扇が、ジジッ……ジジッ……とフィルターの限界を訴えるような悲鳴を上げている。

 それはまるで、全人類の男たちから「闘争心」という牙が抜け落ち、静かに家畜化されていくカウントダウンのようだった。

 氷室司は、完全にブラックアウトして煙を吹いたタブレットを、虚ろな目で見つめていた。

 彼の武器であるデータ至上主義は、数十億台の【スマートトイレ】が形成する超巨大ネットワークの前に、無惨にも打ち砕かれた。

「……もう、どうすることもできません」

 氷室が、震える指で銀縁眼鏡を外し、乾いた声で呟く。

「ハッキングは不可能。物理的な破壊も不可能。私たちが『排泄』という生理現象を持つ生物である以上、絶対にあの【処刑台】から逃れることはできない。……完全なる、詰みです」

「……軍事的な観点から見ても、これ以上の完璧な制圧作戦はない」

 轟大吾が、分厚い両手で顔を覆い、深く、重い溜息を吐き出した。

 歴戦の猛者である彼の巨体が、今や見る影もなく小さく縮こまっている。

「世界中の男たちが、毎日トイレに入るたびに、自らズボンを下ろして急所を差し出す。そしてクラウドが計算した【去勢電波】を浴び、少しずつ骨抜きにされていく。……俺たちは、戦う前から敗北をプログラムされていたんだ」

「でも、それは決して『悲劇』じゃないわ」

 紫煙のベールを透かして、烏丸玲奈の艶やかな声が、密室の空気を優しく撫でた。

 彼女はペットボトルの水をグラスに注ぐと、透き通るような指先でその縁をなぞり、うっとりとした微笑みを浮かべる。

「黒幕たちの目的は、暴動も戦争も起きない【究極の平和ディストピア】。男たちが闘争心を失えば、この世界から流血は消え去る。……私たちはただ、穏やかで清潔な檻の中で、安全な羊として生きていけばいいのよ。それも一つの、人類の進化の形じゃないかしら」

「嫌だ……。俺は、羊なんかになりたくない……!!」

 七海悠太が、床に這いつくばったまま、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして叫んだ。

「快適な便座に座って、クラシック音楽を聴きながら、自分が自分じゃなくなっていくなんて……! そんなの、生きてるって言えないじゃないか!! 誰か……誰か助けてよ……!!」

 青年の悲痛な叫び。

 だが、その声に応える術を、この密室の誰も持っていなかった。

 ——カチン。

 その時。

 死のような静寂を切り裂いて、冷たい金属音が響いた。

 御子柴健が、スーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、火をつけた音だった。

 オレンジ色の炎が、無精髭に覆われた彼の顔を照らし出す。

「ククク……ハハハハハハ!!!」

 突如、御子柴が天を仰ぎ、会議室の壁が震えるほどの狂笑を爆発させた。

「……御子柴さん?」

 氷室が、怪訝な顔で顔を上げる。

「笑わせるな!! 羊になるだと? 平和な檻だと? ふざけんじゃねえ!!」

 御子柴は咥えていた煙草を携帯灰皿に乱暴に吐き捨て、パイプ椅子を蹴り倒して立ち上がった。

 彼のギラギラと血走った眼光が、密室の全員を強烈に射抜く。

「いいか、お前ら! 絶望するのはまだ早い! 奴らの作った【超巨大ネットワーク】にも、たった一つだけ、決定的なバグ……いや、『突破口』が存在している!!」

「突破口……!? バカな、システムは完璧だったはずです!」

 氷室が弾かれたように身を乗り出す。

「システムの設計図ハードウェアは完璧だ! だがな、氷室! 奴らの計画は、ある一つの【人間の行動ソフトウェア】を前提にして組み上げられている!」

 御子柴が、ホワイトボードの前に歩み寄り、黒のマーカーで大きく『便座』の絵を描き殴る。

「奴らの去勢電波は、第一チャクラ(会陰部)が【便座に密着】しなければ致死量に達しない! つまり!! 俺たちが【あの便座の上に座らなければ】、数十億台のスマートトイレも、巨大なクラウド演算も、ただの巨大なゴミの山に過ぎねえんだよ!!」

「座らなければ……? しかし、それではどうやって用を足すと言うんですか!」

 氷室の問いに、御子柴は悪魔のような笑みを浮かべて、極めてシンプルで、かつ究極の答えを放った。

「【立て】」

「……え?」

 七海が、間の抜けた声を漏らす。

「立ってしろ!!!」

 御子柴の咆哮が、地下室の空気をビリビリと震わせた。

「太古の昔から、男がやってきたように! 両足で大地を踏みしめ! 第一チャクラを開放し! 重力に逆らって堂々と【立ちション】をするんだ!! そうすれば、便座に仕込まれた去勢兵器の射程圏外から、完璧に逃れることができる!!」

「【立ちション】……!!」

 轟の巨体が、ビクンと大きく震えた。

「そうだ……! 座らなければ、システムは発動しない! 単純すぎるが故に、絶対に破られない【物理的完全回避パーフェクト・イヴェイジョン】だ!!」

 轟が、分厚い両拳を握りしめ、歓喜の声を上げる。

「待ってください!!」

 だが、氷室が顔面を蒼白にしながら、激しく首を横に振った。

「非現実的です!! 現代社会において、洋式トイレで立って用を足すなど、もはや【社会的なタブー】です! マイクロ飛沫が半径2メートルに飛び散り、壁や床を汚染する! そんなことをすれば、女性たちからの凄まじい反発を招き、家庭や職場は崩壊する!! 結局、私たちは同調圧力に屈して【座る】しかないんです!」

「そうだ……」

 七海が、ブルブルと震えながら氷室に同調した。

「母ちゃんが……母ちゃんがブチギレる……! トイレの壁紙を汚したら、家から追い出される……! 黒幕より、母ちゃんの方が怖いよおおお!!」

 清潔さを求める家族の愛と、世間のマナー。

 それこそが、男たちを便座に縛り付ける「最強の鎖」だった。

 兵器の存在を知ったところで、その社会的な鎖を断ち切らなければ、結局は処刑台に座るしかないのだ。

「……フッ、やはりデータと世間の目しか見えていないようだな、お前ら」

 御子柴が、静かに、だが圧倒的な覚悟を込めて呟いた。

「いいか、氷室。七海。なぜ女たちは怒る? なぜ『座れ』と強要する?」

「それは……掃除が大変だからです」

 氷室が答える。

「そうだ!! 飛び散った尿の始末を【女たちにやらせている】からだ!! だから奴らは、女の怒りを利用して俺たちを去勢の罠にハメることができた!!」

 御子柴は、長机を両手でバンッ!!!と、今日一番の力で叩きつけた。

「なら、答えは一つしかねえだろうが!!!」

 御子柴の瞳の奥で、人類の尊厳を懸けた炎が燃え上がった。

「俺たちが立って、男の尊厳を守り抜く!! そして!! 【飛び散った汚れは、俺たち自身の手で、完璧に掃除する】んだよ!!!」

「……っ!!!」

 密室の全員が、息を呑んで硬直した。

「【自らの手で、掃除をする】……!?」

 轟が、目を見開いて呻く。

「そうだ!!」

 御子柴が咆哮する。

「黒幕の連中は、俺たちが『掃除を面倒くさがる』という【怠慢】すらも計算に入れていた! だからマナーという言葉に甘んじて、座ることを受け入れた! だがな!! 俺たちが自らの手で雑巾を握り、床を磨き、壁を拭き上げる覚悟を持てば!! 女たちはもう『座れ』と怒る理由を失う!! 影の支配者たちが仕掛けた【善意のトラップ】は、その瞬間に完全に崩壊するんだ!!」

「自らの尻拭いを、自らで行う……」

 烏丸玲奈が、ハッとして、そして美しく微笑んだ。

「なんて完璧な霊的儀式リチュアルかしら。……立って第一チャクラで大地と繋がり、そして膝をついて床を磨くことで、大地への感謝と謙譲を示す。それは、骨抜きにされた家畜から、【自立した真の人間】へと魂を昇華させる、究極のグラウンディングだわ」

「便器の清掃……!!」

 轟が、タクティカルジャケットの胸ぐらを強く握りしめ、感動に震える声を上げた。

「敵の化学兵器(尿の飛沫)による汚染区域を、自らの手で除染し、絶対防衛線を維持する!! それは単なる家事じゃない! 家族を守り、人類の闘争心を守るための【孤高の防衛戦】だ!! 俺は……俺は今まで、なんて惨めな敗北者だったんだ!!」

 歴戦の武闘派の目から、熱い涙がこぼれ落ちた。

「……非論理的だ。非論理的ですが……」

 氷室司が、割れた銀縁眼鏡を押し上げ、フッと自嘲気味に笑った。

「AIの演算能力を上回る、人間の『意地』と『覚悟』。……データには決して表れないその不確定要素こそが、この絶望的なシステムを破壊する唯一の【バグ】なのかもしれない。……負けましたよ、御子柴さん。私も今日から、トイレ用の除菌シートを箱買いして、毎晩床を磨き上げることにします」

 データ至上主義者の、敗北宣言にして、誇り高き反逆への賛同。

 巨大な陰謀に対して、彼らが出した答え。

 それは、ハッキングでもテロリズムでもなく。

 【立って用を足し、自分で便器を掃除する】という、極めて日常的で、極めて泥臭い、自己責任の貫徹だった。

 誰も血を流さない。誰も気づかない。

 だが、その小さなトイレでの「立ち上がる」という行為こそが、全人類の家畜化を目論む影の支配者たちへの、最大にして最強の【反逆の狼煙】なのだ。

「さあ、お前はどうする、七海!!」

 御子柴が、床に座り込む青年を見下ろして、獰猛に笑いかけた。

「一生、母ちゃんの顔色を窺って、スマートトイレに骨を抜かれ続けるか? それとも、自分の手でブラシを握り、闘争心テストステロンを取り戻して、真の男として【立ち上がる】か!!」

 七海悠太は、ガタガタと震える膝を両手で押さえながら、ゆっくりと顔を上げた。

 脳裏に浮かぶのは、実家のふかふかのバスマット。

 そして、少しでも汚せば鬼の形相で怒り狂う母親の姿。

 影の支配者たちよりも、ある意味では恐ろしい、日常の絶対権力者。

 だが。

 七海は、両手で自分の頬を思い切り張り飛ばした。パーン!という乾いた音が、地下室に響く。

「……やりますよ!!」

 七海が、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、決死の覚悟で立ち上がった。

「俺の牙は、誰にも抜かせない!! 床が汚れようが、壁が汚れようが!! 俺が全部、ピッカピカに掃除してやりますよ!!」

 5人の意志が、完全に一つになった。

 それは、システムが強要する「従順」ではない。それぞれが自らの「自我」と「責任」によって導き出した、完璧な決断だった。

「よし! ならば特務考察機関サイファー、本日の議題はこれにて閉会とする!」

 御子柴が、新しく咥えた煙草に火をつけ、紫煙を誇り高く吐き出した。

「各自、帰宅後は直ちに【立ちション】を決行し! その後、完全なる除染作業(トイレ掃除)に移行せよ!! 解散!!」

 御子柴の号令と共に、彼らは自らの戦場トイレへと向かう覚悟を決めた。

 だが、その決意の余韻を切り裂くように、七海悠太の悲痛な絶叫が、窓のない第4会議室の天井を突き破らんばかりに響き渡った。

「うおおおおおっ!! でもやっぱり、母ちゃんに怒られるの怖いよおおおおおっ!! 誰か一緒に掃除手伝ってくれえええええっ!!!」

 日常に潜むコズミック・ホラーと、それに抗う男たちの泥臭い決戦。

 無機質な換気扇が、彼らの新たな戦いの幕開けを祝福するように、一段と力強く、空気をかき回し続けていた。

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