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直進  作者: pino


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8/13

七 初練習

 土曜日の昼。


 部室のドアを開けると、先に来ていた健治が大輝先輩の前で頭を下げていた。


「大輝先輩、今日もギター貸してください!」


「来て早々それかよ」


 大輝先輩が壁際のギターケースへ手を伸ばす。


「お前、ほんとハマったな」


「当然です!」


「自分のギター、もう買うつもり?」


「はい! 今度ちゃんと見に行きます!」


「早いなぁ」


「修二も来た!」


「見れば分かるだろ」


「遅い!」


「集合時間なんか決めてねぇだろ」


「俺より後だから遅い!」


「めちゃくちゃだな」


「元気だなぁ、山ノ井は」


 和也先輩の声が飛んできた。


 その近くでは、朝比奈が愛理沙先輩と話している。


「千紘ちゃん、この前はありがとね」


「いえ……私の方こそ」


「また帰ろうね」


「……はい」


 朝比奈が嬉しそうに頷く。


 新入生歓迎会のあとに、二人で帰ったらしい。


 俺の知らないところでも、朝比奈は少しずつこの部に馴染んでいる。


「そうだ」


 和也先輩が机の上に紙を置いた。


「そろそろ決めたやつは、入部届出してくれよ」


「出します!」


 健治が即答した。


「山ノ井は聞くまでもなかったな」


「俺、もう入る気しかないんで!」


「じゃあ朝比奈は?」


「えっ」


 急に話を振られ、朝比奈の肩が少し揺れた。


 愛理沙先輩が隣から顔を覗き込む。


「まだ迷ってるなら、無理に決めなくていいよ」


「……」


 朝比奈は机の上の入部届を見る。


 少しだけ間を置いて、顔を上げた。


「私も……入りたいです」


「ほんと?」


「はい」


 今度は、はっきり頷いた。


「やった!」


 愛理沙先輩が両手を合わせる。


「じゃあ今日から一緒に頑張ろうね」


「はい」


「神崎は?」


 和也先輩の視線がこっちへ向いた。


「俺は……まだいいです」


「まだ決まんない?」


「勉強もあるんで」


「そっか」


 あっさり引かれて、逆に少し拍子抜けする。


 健治が俺を見る。


「修二、まだそんなこと言ってんの?」


「そんなことって何だよ」


「土曜日まで来てるのに」


「今日はお前が来るって言うから」


「俺、先に家出たけど?」


「……」


「一人で普通に来たよな?」


「細かいこと気にすんな」


「そこ大事だろ!」


「まあまあ」


 和也先輩が間に入る。


「せっかく来たんだから、今日もドラムやってけ」


「……やるんですか」


「体験入部中ってことで」


「ずいぶん長い体験ですね」


「ほら、座れ」


「はい」


 結局、今日もドラムの前に座ることになった。


 



 

「じゃあ健治。前の続きな」


「はい!」


 大輝先輩からギターを受け取った健治が構える。


「まず昨日やったコード」


「任せてください!」


「じゃあ鳴らしてみ」


「……」


 健治の左手が止まる。


「どうした?」


「指が届きません」


「昨日もそれ言ってたぞ」


「人間の指ってこんなに開くんですか?」


「練習すればな」


「ほんとに?」


「何日で弾けるようになるつもりなんだよ」


「できれば今日」


「無理」


 即答だった。


「大輝先輩、夢がない!」


「基礎練習に夢求めんな」


 その少し向こうでは、朝比奈が愛理沙先輩とキーボードの前にいた。


「ピアノやってたんだよね?」


「小学校までですけど……」


「じゃあ、まず音取ってみよっか」


「はい」


 愛理沙先輩が鍵盤を一つ鳴らす。


「この音、声で出せる?」


 朝比奈が小さく息を吸った。


 声が出る。


 普段の話し声よりも、ずっとまっすぐな音だった。


「うん。いいね」


「ほんとですか?」


「もう一回。今度は少しだけ大きく」


「はい」


 もう一度。


 さっきより声が伸びる。


「千紘、歌うまっ!」


 健治がギターを抱えたまま振り返った。


「け、健治君、見ないで」


「何で?」


「恥ずかしいから……」


「前向け、健治」


 大輝先輩に注意される。


「あ、はい」


「手止まってるぞ」


「すみません!」


「神崎も」


 今度は和也先輩に呼ばれた。


「はい」


「人の練習見てる余裕ある?」


「ないです」


「だろ。まず右手」


 スティックを持ち直す。


「一定に刻む。速くしなくていいから」


 和也先輩が隣で手を動かす。


 同じ速さ。


 同じ間隔。


「こうですか?」


「そう。そのまま」


 右手だけなら、何とかなる。


「じゃあ二拍目と四拍目でスネア」


「はい」


 一、二、三、四。


 一、二、三――


「あ」


「今ずれた」


「分かってます」


「じゃあもう一回」


 やり直す。


 今度は合った。


「そう。それに足」


「足もですか?」


「バスドラ」


「一気に増えましたね」


「ドラムだからな」


 右手。


 左手。


 右足。


 頭では分かっているのに、それぞれ別の動きをさせようとすると急に分からなくなる。


 一、二――


「……あれ?」


「止まったぞ」


「今どこですか?」


「叩いてんの神崎だろ」


「難しい……」


「最初はそんなもん」


 もう一度スティックを構える。


 右手。


 スネア。


 足。


「神崎君」


「ん?」


「今、少し遅れた」


 朝比奈がこちらを見ていた。


「やっぱり?」


「うん……あっ、ご、ごめんなさい」


「何で謝るんだよ」


「その……言わない方がよかったかなって」


「ずれてたなら言ってくれた方がいい」


「……うん」


「次は合わせる」


 朝比奈が少しだけ笑う。


「頑張って」


「おう」


「修二、千紘に応援されたら急に――」


「健治」


「はい」


「コード」


「まだ最後まで言ってねぇ!」


「言わなくていい」


 大輝先輩が健治の手元を直す。


 俺もスティックを握り直した。


 もう一度。


 さっきより少しだけ、音がそろった。


 




 一時間ほど経つ頃には、健治は机に突っ伏して、左手をひらひらさせていた。


「指痛ぇ……」


「だから力入りすぎなんだって」


 大輝先輩が言う。


「でも、最初より鳴るようになりましたよね?」


「まあな」


「よっしゃ!」


「それくらいで喜べるなら上達早そうだな」


「褒めてます?」


「一応」


 健治が借りたギターを眺める。


 借り物なのに、もう自分のものみたいな顔をしている。


「早く自分の欲しいなぁ」


「今度見に行くんだろ?」


 俺が言うと、健治がすぐ大輝先輩を振り返った。


「大輝先輩、おすすめの店教えてください!」


「いいよ。初心者向けも結構ある店知ってるから」


「マジっすか!」


「行く日決まったら場所教える」


「ありがとうございます!」


 休日の約束が、少しずつ本当になっていく。


 その横で、朝比奈と健治が入部届を記入していた。


 二人が順番に和也先輩へ紙を渡す。


「よろしくお願いします!」


「よろしくお願いします」


「おう。二人ともよろしくな」


 和也先輩が二枚を受け取る。


「これで一年が二人――」


「いや」


 大輝先輩が俺を見る。


「たぶん三人になると思いますけど」


「勝手に決めないでください」


「じゃあ今日何しに来たんだよ」


「練習……」


「ほら」


「……」


 言い返せない。


 机の上には、まだ入部届が残っている。


 医者になる。


 そのために勉強する。


 それは今も変わっていない。


 部活に時間を使うつもりもなかった。


 なのに放課後になると、気づけばここに来ている。


 今日だってそうだ。


 誰かに引っ張られてきたわけじゃない。


 土曜日なのに、自分で学校まで来た。


 和也先輩が俺を見る。


「神崎」


「はい」


「別に今日決めなくてもいいぞ」


「……」


「入りたくなった時に入ればいい」


 そう言われると、余計に考えてしまう。


 朝比奈がこっちを見ていた。


 健治も何も言わない。


 珍しく急かしてこない。


 俺は机の上の紙を見る。


「和也先輩」


「ん?」


「それ、一枚もらっていいですか」


 和也先輩が一瞬だけ目を丸くした。


「もちろん」


 入部届が目の前に置かれる。


 ペンを持つ。


 いくつかの欄を埋めていく。


 氏名のところで、ほんの少しだけ手が止まった。


 神崎修二。


 自分の名前を書く。


 書き終えて、和也先輩へ差し出した。


「よろしくお願いします」


「おう。よろしくな、神崎」


「修二!」


 健治がいきなり肩を組んでくる。


「やっぱ入るじゃん!」


「重い。離れろ」


「素直じゃねぇなぁ!」


「うるさい」


「これで三人だな!」


 朝比奈もこっちを見ていた。


「よろしくね、神崎君」


「おう」


「じゃ、改めて」


 大輝先輩が俺たちを見る。


「よろしくな、修二。千紘も」


 いきなり名前で呼ばれて、返事が一拍遅れた。


「……よろしくお願いします」


「は、はい。よろしくお願いします」


 朝比奈の声が少し裏返る。


 健治だけが、自分のことみたいに得意そうな顔をしていた。


 




 夕方。


 部活を終えて学校を出た。


「じゃ、俺こっち!」


 健治が自転車にまたがる。


「今日は先帰るの?」


 朝比奈が聞く。


「母ちゃんに買い物頼まれてたの思い出した!」


「また忘れてたのかよ」


「思い出したからセーフ!」


「じゃあまた月曜な!」


「おう」


「うん。また月曜日」


「千紘もな!」


「うん」


 健治が自転車で走っていく。


 俺は自転車を押したまま、駅へ向かった。


 隣を朝比奈が歩く。


 さっきまで健治がいたせいか、急に静かになった。


「……」


「……」


 気まずいわけじゃない。


 でも、何を話せばいいのかも分からない。


 しばらくして、朝比奈が口を開いた。


「今日、楽しかった」


「そう?」


「うん」


「歌ってた時、かなり緊張してたけど」


「だって、みんないたから……」


「軽音部なんだから、そのうちもっと人前で歌うだろ」


「分かってるけど……」


 朝比奈が少し困った顔をする。


「神崎君は?」


「何が?」


「楽しかった?」


「……まあ」


「まあ?」


「思ってたよりは」


「ふふっ」


「何だよ」


「神崎君、最近ずっとそんな感じだから」


「どんな感じ?」


「別にって言うけど、ちゃんと楽しそう」


「……そう?」


「うん」


 自分ではよく分からない。


 ただ、家で勉強しているはずだった土曜日に、俺は部室でドラムを叩いていた。


「朝比奈も最近よく笑うな」


「え?」


「最初に会った頃より」


 朝比奈の歩く速度が少しだけ落ちた。


「……みんな、優しいから」


「そう?」


「愛理沙先輩も、和也先輩も。みんな」


「おう」


「神崎君も」


「俺?」


「うん」


「何もしてないけど」


「してるよ」


「何を?」


「……それは、いいの」


「何だよ、それ」


 朝比奈が小さく笑う。


 それ以上は教えてくれなかった。


 駅までの道を、並んで歩く。


 三人で歩くのとは違う静けさだった。

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