四 音
和也先輩がギターをスタンドに戻し、部屋の奥へ歩いていく。
そのままドラムセットの前に座った。
「え?」
健治が目を丸くする。
「和也先輩、ドラムなんですか?」
「本職はこっち」
「ギターじゃないんですか!?」
「ギターも弾ける」
「何でもありじゃないですか」
「まあ見てろって」
和也先輩が笑って、部室の中を見回した。
「愛理沙」
「はーい!」
「相馬」
「はい」
「黒沢」
「はいよ」
「俊也」
「ん」
愛理沙先輩がマイクを手に取る。
大輝先輩はギターを肩に掛け、俊也先輩はベースを構えた。
雄介先輩は部屋の端に置かれたエレクトーンの前へ座る。
そんなものが弾けるなんて、中学の頃は一度も聞いたことがなかった。
好き勝手に喋っていた五人が、それぞれの場所につく。
それだけで、部屋の空気が少し変わった。
「うわ……」
隣で健治が小さく声を漏らす。
朝比奈も、椅子に座ったまま五人を見つめていた。
緊張していた表情は消えていない。
それでも今は、膝の上で手を握ったまま、少しだけ身を乗り出していた。
「じゃ、いくぞ」
和也先輩がスティックを構える。
短いカウント。
次の瞬間、ドラムの音が腹の奥まで響いた。
「……っ」
思わず息を呑む。
大輝先輩のギターが重なる。
俊也先輩のベースがその下を支え、雄介先輩のエレクトーンが音に厚みを加えていく。
そこへ、愛理沙先輩の歌声が乗った。
同じ部屋のはずなのに、別の場所みたいだった。
音が重なるたびに、空気まで揺れる。
和也先輩の腕が動く。
右手、左手、足。
何をしているのか全然分からない。
それなのに、一つ一つの音が全部、ほかの音とつながっていた。
気づけば、和也先輩の手元ばかり見ていた。
中学の頃、バスケットボールを持って走る姿なら何度も見た。
でも今、目の前にいる和也先輩は、まるで知らない人みたいだった。
「すげぇ……」
隣で健治が呟く。
俺は何も言えなかった。
音楽なんて、ほとんど知らない。
何がどうすごいのか、説明だってできない。
それでも、胸の奥が妙にざわついていた。
最後の音が止まる。
一瞬だけ静まり返った部室で、健治が勢いよく立ち上がった。
「かっけぇ!!」
「うるさっ」
愛理沙先輩が笑う。
「やばいっす! 俺、ギターやります!」
「もう決めたの?」
「決めた!」
「早すぎだろ」
俺が呆れている間に、健治は大輝先輩の前まで駆け寄った。
「大輝先輩、教えてください!」
「いいよ」
「即答!?」
「だって後輩増えるの嬉しいし」
「よろしくお願いします!」
「おう。……あ」
大輝先輩が健治の顔を見る。
「やっぱ山ノ井って呼びにくいな。健治でいい?」
「全然いいっす!」
「じゃ、健治。まずコードからな」
「はい!」
横から和也先輩が不満そうに口を挟んだ。
「おい。ギターなら俺も教えられるぞ」
「和也先輩、本職ドラムじゃないですか」
大輝先輩があっさり返す。
「黒沢、お前な」
すると、和也先輩が今度は俺を見る。
「神崎」
「はい?」
「お前、来い」
「え?」
嫌な予感がした。
和也先輩が立ち上がり、ドラムの椅子を軽く叩く。
「座ってみ」
「いや、俺はいいです」
「いいから」
「触ったことないですよ」
「だから触るんだろ」
「壊したらどうするんですか」
「壊れるほど叩けねぇよ」
俊也先輩がぼそっと言った。
「俊也先輩……」
「事実だ」
健治が横で肩を震わせている。
「笑うな」
「だって修二、ビビりすぎ」
「うるさい」
「ほら、座れって」
和也先輩に促され、仕方なくドラムの前に座った。
「……近いな」
少し離れた場所から見ていた時とは全然違う。
目の前には、形も大きさも違う太鼓が並んでいる。
その上には金属の円盤。
足元にはペダル。
どれをどう鳴らすのか、さっぱり分からない。
「ほい」
和也先輩がスティックを差し出した。
受け取ってみる。
思っていたより軽い。
「持ってみ」
「こうですか?」
「力入りすぎ。そんな握ったら手ぇ痛くなるぞ。もっと軽く」
言われた通り、少し力を抜く。
「……こう?」
「そうそう」
和也先輩が目の前の太鼓を指差した。
「まずそれ叩いてみ」
「これ?」
「スネア」
「名前から覚えるんですか」
「当たり前だろ」
恐る恐るスティックを振り下ろす。
パンッ。
「……お」
思っていたより大きな音が出た。
もう一度。
パンッ。
和也先輩の音とは、全然違う。
ただ叩いて、音が出ただけなのに、なんとなく、もう一度叩きたくなった。
「どう?」
和也先輩が笑う。
「……まあ」
「かっこいいだろ?」
「ちょっとだけ」
「素直じゃねぇなぁ」
健治が横から覗き込んでくる。
「修二、似合うじゃん!」
「二回叩いただけだろ」
「次、俺もやっていいですか?」
「お前、もうギターに決めたんじゃなかったのかよ」
「ドラムもやってみたい!」
「いいじゃん」
和也先輩が笑う。
「うちの軽音部、自分の担当だけ弾ければいいってもんじゃないから」
俺たちは和也先輩を見る。
「俺はドラムだけどギターも弾く。愛理沙は歌うけど、ギターもピアノもできる。俊也もギター弾けるし、相馬はピアノもできる」
「そんなにやるんですか?」
「全部上手くなれって意味じゃねぇよ」
和也先輩が、俺の手からスティックを一本取った。
「バンドは全員で音楽を作るんだ」
スティックの先で、大輝先輩のギター、俊也先輩のベース、雄介先輩のエレクトーンを順番に示す。
「だから、ほかの楽器を知るのも大事」
「……」
「ギターが何してるか。ベースが何してるか。ドラムがどこで入るか。そういうの分かってた方が、絶対面白いから」
「なるほど……」
健治が真面目な顔で頷いている。
和也先輩はスティックを俺に返した。
「まあ、やってみるのが一番早いけどな」
「和也先輩、ちゃんと先輩っぽいこと言うんですね」
「神崎、お前俺を何だと思ってんの?」
「彼女欲しくて軽音部に入った人」
「お前なぁ!」
大輝先輩が声を上げて笑った。
愛理沙先輩も口元を押さえる。
「いつも自分で言ってるじゃん」
「愛理沙まで……」
「それとこれとは別!」
部室に笑い声が広がる。
その中に、一つだけ小さな声が混じった。
「ふふっ」
そちらを見る。
朝比奈が笑っていた。
初めて見た。
目を細めて、口元に手を当てて楽しそうに笑っていた。
目が合う。
朝比奈の笑顔が少しだけ固まる。
「……何?」
「え?」
「今、俺見て笑ってただろ」
「ち、違っ……」
一度言いかけて、朝比奈が小さく首を振った。
「……神崎君も、そういうこと言うんだなって」
「そういうこと?」
「さっきまで、ドラムの前ですごく困った顔してたのに」
「別に困ってない」
「……少しだけ、困ってました」
朝比奈の口元が、また少し緩む。
「別にいいけど」
「え?」
「面白かったんだろ?」
「……はい」
「修二、初ドラムで女子に笑われてんじゃん」
健治が嬉しそうに口を挟む。
「うるさい」
「なあ、千紘。修二めちゃくちゃ固まってたよな?」
「えっ」
突然振られた朝比奈が目を泳がせる。
「ほら、千紘もそう思うだろ?」
「え、えっと……」
しばらく困った顔をしていた朝比奈が、健治を見る。
「健治君、うるさいです」
「えっ!?」
今度は健治が固まった。
愛理沙先輩が真っ先に吹き出す。
「千紘ちゃん、言えるじゃん!」
「えっ……」
朝比奈自身も驚いたように目を見開いた。
「すみ――」
そこで、口を閉じる。
少しだけ迷って。
やがて、恥ずかしそうに笑った。
「……言えました」
「うん」
愛理沙先輩が嬉しそうに頷く。
「その方がいいよ」
「ちょっと待って。俺だけ被害受けてない!?」
「お前がうるさいからだろ」
「修二まで!?」
朝比奈も、今度は声を隠さずに笑った。
俺はまだ、スティックを握ったままだった。
もう一度だけ、目の前のスネアを軽く叩く。
パンッ。
乾いた音が部室に響く。
さっきまで知らなかった音だった。
その向こうで、朝比奈がまだ笑っていた。




