一 出発
「受かったぁぁぁぁ!」
卒業式を終えたばかりの教室に、山ノ井健治の声が響いた。
友達と写真を撮るやつ。名残惜しそうに机を囲んでいるやつ。制服のボタンを欲しがられて騒いでいるやつ。
そんな教室のざわめきを押しのけて、健治だけがやたらとうるさい。
「修二! 見ろ! 麗丸! 受かった!」
スマホの画面を鼻先まで突きつけられて、俺は少しだけ身体を引いた。
「見なくても分かる。声で」
「反応薄っ! 俺が今日までどんだけソワソワしてたと思ってんだよ!」
「知らねぇよ」
「お前はいいよな。一か月も前に推薦で決まってたもんな!」
「まあな」
「くそー!」
悔しそうな声を出しているくせに、顔はずっと笑っている。
俺もつられて笑った。
「これで高校でも修二とバカできる!」
「バカやる前提なのやめろ」
「じゃあ高校デビューする!」
「好きにしろ」
「彼女百人作る!」
「一人にしろ」
「昨日、妹にも同じこと言われた」
「お前の妹、まともだな」
「なんでお前まで妹側なんだよ!」
健治が大げさに肩を落とす。
こいつとは、中学に入ってからずっと一緒だった。
同じバスケ部に入り、気づけば学校でも部活でも隣にいるのが当たり前になっていた。
喧嘩をしたことだってある。
それでも次の日には、何事もなかったみたいにくだらない話をしていた。
「……修二」
「ん?」
さっきまで騒いでいた健治が、不意に真面目な顔になった。
「俺さ、お前と同じ高校行きたかったんだよ」
一瞬、返す言葉に困った。
「だから、すげぇ嬉しい」
「……バカ」
「なんだよ」
「俺も嬉しいって言ってんだよ」
「言ってねぇじゃん!」
「今言った」
「分かりづれぇ!」
また笑い声が上がった。
窓の外には、まだ少し冷たそうな三月の空が広がっている。
今日で中学校は終わる。
でも、健治とのくだらない毎日はまだ終わらない。
そのことが、思っていたより嬉しかった。
俺には、この先の人生もある程度決まっているつもりだった。
中学では生徒会長を務め、バスケ部ではキャプテンだった。勉強も嫌いじゃない。
高校でもやるべきことをやって、その先の大学へ進む。
そして、医者になる。
それが俺にとって、一番自然な未来だった。
父は地域の中核を担う病院で総合内科医として働き、内科医長を務めている。母も同じ病院の外来で看護師をしている。
父が当直でいない夜もあれば、三人で夕食を囲む日もある。
病院や白衣の話が食卓にのぼることも、俺にとっては昔から珍しいことじゃなかった。
けれど、医者になりたいと思った理由は、両親の仕事だけじゃない。
小さい頃、祖父が病気で入院したことがある。
いつも元気だった祖父が、病室のベッドで横になっている。
それだけで、子どもの俺にはひどく怖かった。
そんな俺たち家族に、一つずつ言葉を選びながら話してくれた医師がいた。
何を説明されたのかまでは、もうほとんど覚えていない。
それでも、その人がいるだけで少し安心したことは覚えている。
――俺も、こんな人になりたい。
誰かを救える人になりたい。
子どもの頃に抱いたその思いは、今も変わっていなかった。
四月。
満開の桜の向こうに、校舎が見えた。
小桜麗丸高等学校。
地元では『麗丸』で通っている。
「うわ……やっぱでけぇな」
隣で健治が校門を見上げた。
「今日からここ通うんだぜ、俺ら」
「そうだな」
「なんだよ、その落ち着き。もっと感動しろよ」
「お前が二人分騒いでるからいい」
「ひでぇ!」
春風が吹き抜け、桜の花びらが制服の肩に落ちた。
開いた校門の向こうへ、真新しい制服に身を包んだ生徒たちが次々と入っていく。
俺もその流れに足を踏み入れた。
三年間、ここで勉強して、大学へ行く。
その先にあるものまで、俺にはもう見えていた。
「新入生代表、神崎修二」
名前を呼ばれ、席を立った。
静まり返った体育館を、壇上へ向かって歩く。
人前に立つのは、中学の頃から慣れている。
壇上に上がり、正面を向く。
制服姿の新入生が、ずらりと並んでいた。
どこかから小さなざわめきが聞こえた。
それも、すぐに消えた。
一度息を吸い、手元の紙に目を落とす。
「私たち新入生一同は、伝統ある小桜麗丸高等学校の生徒としての誇りを持ち、勉学、部活動、人との出会いを大切にし、それぞれの夢に向かって努力していくことを誓います」
最後まで読み終え、深く頭を下げる。
体育館いっぱいに拍手が広がった。
夢に向かって努力する。
自分で読み上げたその言葉に、迷いなんてなかった。
俺の夢は、もう決まっている。
高校生活は、その未来へ向かって進むための三年間になるはずだった。
入学式を終え、校門を出ようとした時だった。
春風が、急に強く吹いた。
「あっ……!」
少し離れたところから、小さな声が聞こえた。
一枚の白いプリントが風にあおられ、地面を滑ってくる。
俺の足元まで来たところで止まった。
拾い上げる。
顔を上げると、一人の女子がこちらへ走ってきていた。
長い髪が、風に揺れている。
俺の前まで来ると、彼女は少し息を切らしながら立ち止まった。
「これ」
紙を差し出す。
「あ……」
彼女は紙を両手で受け取った。
一瞬だけ、目が合う。
すぐに視線を伏せられた。
「すみません……ありがとうございます」
聞き取れるかどうかの、小さな声だった。
彼女はぺこりと頭を下げると、そのまま足早に離れていった。
「修二」
「何だよ」
「今の子、かわいかったな」
「見てねぇよ」
「見てたじゃん」
「紙拾っただけだろ」
「それ、否定になってなくね?」
「うるせぇ」
健治を置いて歩き出す。
「待てって!」
後ろから声が追いかけてきた。
俺は一度だけ、さっきの女子が歩いていった方を振り返った。
もう、人混みの中に紛れて見えなかった。
名前も知らない。
話したのだって、ほんの数秒だけ。
もう一度会うとも思っていなかった。
春風に飛ばされた紙を、たまたま拾った。
その時の俺にとっては、ただそれだけの出来事だった。




