九 初めての演奏
ドアが開くと、部室の中の声が止まった。
朝比奈が入口で小さく頭を下げる。
「……さっきは、すみませんでした」
「おう」
和也先輩はそれだけ言って、スティックを手に取った。
「神崎も座れ。練習するぞ」
「……はい」
「千紘ちゃん」
愛理沙先輩が、机の上の袋を持ち上げる。
「いちご、まだ残ってるよ」
朝比奈は少し迷ってから、愛理沙先輩の隣に座った。
健治は何か言いたそうな顔をしていたけど、大輝先輩にギターを渡されて口を閉じた。
誰も、さっきのことは聞かなかった。
次の日の放課後。
部室へ入ると、朝比奈はいつもより少しだけ静かだった。
「こんにちは」
「おー」
和也先輩がいつも通り返す。
「千紘ちゃん、こっちおいで」
愛理沙先輩が手招きする。
「今日はキーボードやってみよっか」
「……はい」
朝比奈が小さく頷く。
「よし」
和也先輩が手を叩いた。
「今日は一年三人、初めて一緒に音出してみるぞ」
「おお!」
健治だけがやたら大きな声を出す。
「ついに俺のギターが火を噴く時が!」
「まだ借り物だけどな」
大輝先輩が言う。
「細かいことはいいんです!」
「よくねぇよ」
「で、神崎はドラム」
「はい」
「山ノ井はギター」
「はい!」
「朝比奈はキーボード」
「……はい」
朝比奈が鍵盤の前に座る。
「歌じゃなくていいんですか?」
「今日は弾く方」
愛理沙先輩が隣に立った。
「大丈夫。難しいことしないから」
「……はい」
俺はドラムの椅子に座る。
健治が大輝先輩から借りたギターを構えた。
俊也先輩がベースを持つ。
「俺が下支えるから、多少ずれても止まるなよ」
「はい」
「愛理沙」
「はーい」
愛理沙先輩がマイクの前に立つ。
「簡単な曲にするから、まず一回やってみよう」
和也先輩が俺の横に立った。
「神崎はこの前やった八ビート。無理に速くするな」
「はい」
「山ノ井は大輝に教わったコードだけでいい」
「任せてください!」
「任せるの怖ぇな」
「和也先輩!」
「朝比奈は?」
「はい」
「コード追える?」
朝比奈が譜面を見る。
「……たぶん」
「分かんなくなったら止まらないで、分かるところから戻れ」
「はい」
「じゃあ、いくぞ」
和也先輩が四つ数える。
俺が叩き始める。
すぐに俊也先輩のベースが重なった。
健治のギター。
朝比奈のキーボード。
愛理沙先輩の声。
最初の数秒だけは、それっぽかった。
「あ」
健治の音が止まる。
「健治、止まるな!」
大輝先輩の声だった。
「コード分かんなくなりました!」
「適当でもいいから戻れ!」
「はい!」
次の瞬間。
「神崎、速い!」
「え?」
和也先輩の声が飛んでくる。
気づけば、最初よりかなりテンポが上がっていた。
「すみません!」
「そのまま戻せ!」
「はい!」
「朝比奈!」
「は、はい!」
「止まってる!」
「どこか分からなくなって……」
「次の小節から入れ!」
「はい!」
鍵盤の音が戻る。
ギターもまた入ってくる。
俺も何とかテンポを落とす。
でも、今度は健治が速い。
「山ノ井!」
「はい!」
「走るな!」
「走ってません!」
「音が走ってんだよ!」
「音って走るんですか!?」
「そういう意味じゃねぇ!」
愛理沙先輩が歌いながら吹き出す。
朝比奈まで笑って、また鍵盤を間違えた。
「あっ」
「朝比奈、止まるな!」
「はい!」
ぐちゃぐちゃだった。
誰がどこを弾いているのか分からない。
何度合わせても、どこかで崩れる。
それなのに、不思議と嫌じゃなかった。
「疲れた……」
健治が椅子に座り込む。
「お前、まだ一曲まともに通せてないぞ」
大輝先輩が言う。
「分かってます」
「分かってる顔じゃないな」
「ギターってもっとこう、ジャーン! ってやれば何とかなると思ってました」
「ならねぇよ」
朝比奈が隣で笑う。
「健治君、途中からずっと同じコード弾いてたよね」
「気づいてた?」
「うん」
「言ってよ!」
「私も自分ので精一杯だったから」
「千紘の方がちゃんと弾けてたじゃん」
「そんなことないよ」
「神崎」
雄介先輩に呼ばれた。
「はい」
「ちょっとこっち」
エレクトーンの前へ行く。
「鍵盤、触ったことある?」
「昔、ピアノ習ってました」
「へぇ。何年くらい?」
「小三までです」
「結構やってたじゃん」
「もうほとんど忘れてますよ」
「俺も中一までピアノやってた」
「だからエレクトーン弾けるんですね」
「そういうこと」
「なるほど」
「ちょっと弾いてみ」
「いや、無理ですよ」
「何でもいいって」
「何でもって……」
仕方なく椅子に座る。
鍵盤に指を置く。
昔習った曲を思い出そうとする。
最初の数音。
その先。
指が少しずつ動いた。
「あ」
思ったより覚えている。
「弾けるじゃん」
「いや、全然です」
「今度コードも教えるよ」
「お願いします」
「ドラム以外もやっとくと楽しいぞ」
「和也先輩も同じこと言ってました」
「部長の方針だからな」
もう一度、鍵盤に触れる。
音を一つ。
続けて、もう一つ。
「……わぁ」
声がして振り向く。
朝比奈が少し離れたところに立っていた。
「何?」
「神崎君、ピアノも弾けるんだ」
「昔やってただけ」
「すごい」
「全然。途中から分かんなくなったし」
「でも……」
朝比奈が俺の手元を見る。
「かっこいい」
「え?」
「……え?」
言った本人が一番驚いた顔をした。
そのまま固まる。
「千紘」
健治がニヤッとする。
「今の――」
「健治君」
「……はい」
「黙ってて」
「何で!?」
「言おうとしてること分かるから」
「何で分かるんだよ!」
「顔」
朝比奈が頬を赤くしたまま健治を睨む。
愛理沙先輩が、こらえきれずに吹き出した。
「愛理沙先輩まで……」
「ごめんごめん」
「もう……」
朝比奈が顔を隠す。
俺は何となく鍵盤に目を戻した。
かっこいい。
ただそれだけの言葉なのに、妙に耳に残った。
「もう一回やるぞ」
和也先輩の声で、全員が元の位置に戻る。
「今度はさっきより一個だけ意識しろ」
「一個?」
健治が聞く。
「周りの音を聴く」
「弾きながらですか?」
「当たり前だろ」
「無理じゃないですか?」
「だから練習すんだよ」
和也先輩が俺を見る。
「神崎。自分の音だけ追うな」
「はい」
「山ノ井も」
「はい」
「朝比奈」
「はい」
「間違えても止まるな」
「……はい」
今度の返事は、さっきより少しだけ強かった。
「じゃあ、いくぞ」
和也先輩が四つ数える。
叩き始める。
ベースが入る。
ギター。
キーボード。
歌。
やっぱり、まだバラバラだった。
健治は一度コードを間違えた。
朝比奈も途中で音を外した。
俺も少しだけ速くなった。
それでも、今度は誰も止まらなかった。
ほんの数小節だけ、三人の音が同じところで重なった。
朝比奈を見ると、鍵盤を弾きながら笑っていた。
俺もそのまま、ドラムを叩き続けた。




