ep8.悪意
下水をひっくり返し、それで魚の臓腑を煮詰めたような臭いに耐えながら、周囲を観察する。むしろ今はそれしかできない。
目の前には大きめのテーブルがある。ただ、劣化が激しい。木目に沿って亀裂が走っているし、土汚れの他に、近寄るだけで咽せそうな程の埃も積もっている。
部屋自体に灯りはない。崩れた屋根の隙間から覗く月明かりだけが部屋を照らしている。
そんな僅かな明かりでも認識できるほど、部屋中に張り巡らされた蜘蛛の巣。壁なんかも、中の骨組みが丸見えになっている箇所もある。そこに小さな黒い物体が蠢いているのを見ると、鳥肌がたった。
「キッツ…………」
霧猫もあの時どこかへ放り出されたのか、見当たらない。
身の回り全てが不快で、そして不安を煽る中、ただ静かに時間だけが流れていく……。
外の様子をなんとか知りたい一心で耳を澄ますと、何か液体のような音が聞こえた。
水というには何か粘度の高い、これもまた嫌な音だった。
どうしてこうも全てが嫌なものなのか、少しずつ苛立ちを覚えてきたが、それもすぐに引っ込んでしまった。
目の前にうっすら見える扉の向こう——そこから床の軋む音が少しずつ近づいているのに気付いたからだ。
「なんか来るってなんか来るって……!」
ダメ元でもう一度体を動かしてみるが、椅子の軋む音が虚しく響くだけだった。
そうして足音が止むと、ギィ——と、建て付けの悪い戸をゆっくりと開ける音が部屋中に響き渡る。そこには——
「アレ、兄ちゃん何してんの。ここ俺らの場所なんだけど」
そう切り出したのは、俺より年上の男だった。
マスクで顔は見えないが、鋭い目つきでこちらを凝視している。
「もうそろそろ移すべきかなぁ」
「えっと、あなたは——」
途端に、軽い平手打ちを頬に受け、顔が明後日の方へ向いた。
「何勝手に質問してんの?」
「…………」
「もう縛られてるってことは、他のやつが捕まえたってことか」
呆気に取られていると、頬を鷲掴みにされ、今度は顔を無理やり正面へと回される。目と鼻の先に、男の目があった。
「見れば見るほどガキじゃねえかよ。何でこんなとこに居んだよ、答えろ」
思い切り椅子を蹴り飛ばされ、バランスも取れないままに肩から床に強く打ち付けられる。それでも椅子から体は離れそうにない。
「黙ってちゃ何もわかんないでしょ、質問には答えましょうって習わなかったか?」
確かに、このまま黙っているわけにはいかなそうだ。じゃなきゃ、答える前にくたばってしまう。
「……森のコックさんに会いに来たんです」
「ふはは……、アレ?信じてんの?」
途端に笑い出した男は、倒れたままの俺のそばにやってきて、俺を見下すように腰を下ろした。
「お前も馬鹿だな、あんなの嘘に決まってんじゃん」
「嘘……?」
「まあいいや、ここを知っちまったんだから最期に教えてやるよ」
男は近くに転がっていた角材を手に取り、それで俺の頬を力強く押し付けながら話し始めた。
「ここ、死体置き場ね」
「……!」
「ほら、そっち」
男の指す方を見る。さっきまで見えなかった位置に、人らしい形の何かが床に転がっていた。
「こいつ、みんなで殴ってたら死んだんだよ」
「…………」
「こんな山奥、誰も来ないからさ。一旦隠すのに丁度いいとか思ったんだよ。だってのに、いつの間にかお化けの話が広がってんの」
〝森のコックさん〟なんてものは、この時もう頭から抜けていた。目の前の男は、人を殺めたことを何とも思っていないのか、さも当たり前のように淡々と語る。
「是非会わせてくんないかな、その〝森のコックさん〟って奴にさ」
何も見えないが、マスクの裏で笑みを浮かべていることははっきりと伝わってくる。
すると、自分を縛っていた何かが少しずつ解けていくのがわかった。
両手がするりと床に落ち、そしてそのままうずくまる形で俺は四肢の自由を取り戻した。
「あーあ、強く蹴りすぎたかな」
そして、男の持つ角材が振り上げられる。
「はい、じゃあここまで。知っちゃったからには死なないとね」
咄嗟に両手で頭を抱える。しかし、振り下ろされる気配がまるでない。
何をしているのかと思い、恐る恐る顔を覗かせると、男は角材を下ろし、入ってきた扉を凝視していた。
「おいおい、お友達もいんのか?」
耳を澄ますと、確かに足音のようなものが扉の奥から聞こえてくる。しかし、何かが滴るような音も同時にしているのが気になった。
男は気だるそうに扉の方へと姿を消し、俺は結果的に助かった。
それに安堵するも束の間、男の悲鳴が闇を裂いた。
何だお前——と、男がそう叫んだ直後、口元を抑えられたかのように静かになり、そしてガタガタと暴れる音がして、やがて……静寂に戻った。
「……いや嘘だろ」
扉の奥に、居るというのだろうか。〝森のコックさん〟が——




