ep7.森のコックさん
舞さんは、俺が道中でほぼ気絶していたことを知って、改めて怪異の説明をしてくれた。
体現型――つまり噂話などから生まれる怪異。霧猫と同じ分類だそうだ。ただコイツと決定的に違うのは、怨恨性と呼ばれるもので、簡単にいえば危険度の高い存在ということらしい。
現に、この山に入った人間が数人行方不明となっているそうだ。
そして一番の問題は、その怪異は〝森のコックさん〟と呼ばれ、既に名前を得てしまっているということだ。
「〝森のコックさん〟……。料理でも出すんですか?」
「らしいよ〜。噂によると〝眼球スープ〟が有名なんだって〜」
それが何かはわからないが、多分想像通りのものだろう……。あまり考えたくはない。
「意外だね、すんなり受け入れるんだ」
「まあ霧猫がいますからね……」
『怪異とやらもいろいろいるらしいな。しかし眼球スープか……。ふむ、興味深い』
「興味持つなよ気色悪い……」
やはりというか、ご機嫌な様子の霧猫は、尻尾を立てたままどんどん奥へと進んでいく。
しかし、ある地点でぴたりと足を止めた。
どうしたのかと声をかけようとすると、霧猫の方から振り返って『臭い』と言った。
「臭いって……、別に何も匂わないけど」
いくら鼻を利かせようとも、匂わないものは匂わない。森の緑と土の匂いが全身を覆っていることしかわからない。
『なんとも形容し難い臭い……。腐った臭いとでも言うのか?とにかく不快だ』
舞さんは納得したように、霧猫の方へと向かう。
「多分だけどさ〜。それ、腐乱臭じゃない?」
『ほう』
「……腐乱臭って?」
「この先遺体があるってこと〜」
聞き間違えたかと思い、二、三度目を瞬かせる。しかしいくら反芻しても「遺体」としか聞き取れない。
「一線超えちゃったってことかな」
「……つまり?」
「調査優先だけど、最悪処理も検討しなきゃだねぇ」
その何もかもを包み込むような笑みのまま言われてしまうと、身慄いをしてしまう。舞さんはやっぱり怖い人なのだろうか……。もはやわからない。
「とはいえ、怪異が原因と決まったわけじゃないからね〜。単に思い詰めた人の成れ果てかもしれないし」
「それはそれで怖いんですけど……」
先に進む足が止まってしまう。俺は今、流れのままここまでやって来たが、これ以上進む心意気がないことを自覚した。
自分には縁のないと思っていた〝死〟が、歩いてすぐのところに鎮座している——。その実感がじわじわと恐怖心を煽り、やがて生暖かい汗となって額を伝った。
「舞さん、ちょっと怖がらせすぎ」
「あちゃ〜……、ごめんね、無配慮だったよ……」
「いや、まあ……、大丈夫です。俺が行くって言ったんですから」
それを聞いて安心したのか、舞さんはゆっくりと前へと歩き始めた。
着いていくしかない。俺はなけなしの勇気を振り絞って、足を前へと運ぶ。一歩一歩に緊張したのは、生まれて初めてだった。
『……臭い』
「我慢して……」
『むう……』
「仕方ないなぁ……」
嫌がる霧猫をそっと抱き上げ、そのまま頭の上へ乗せてみた。
「これならどう?まだ臭う?」
『うむ、許容できる』
「よし、行こうか」
『あまり気は乗らないがな……』
初めて文句を垂れる霧猫は新鮮だった。
頭に霧猫を乗せたまま、森の奥へと続く獣道に足を踏み入れた——
◆◆◆
木の枝を踏み、虫を追い払い、藪を掻き分けて進む。しばらくすると、少し開けた場所へと出て来た。
「気をつけて、この下崖だよん」
そう言われて立ち止まると、十数メートル程の崖が眼下に待ち構えていた。
「みっけ。あれが目標だね」
舞さんが指を向けた方に、ペンションが建っていた。
しかし話通りかなり朽ちていて、屋根も一部は穴が空いているらしく、真っ黒な闇を覗かせていた。
「雪乃ちゃん、いるかな」
「うん、居るよ」
「何か言ってる?」
「言ってるというか……、〝どこ?どこ?〟って感じね」
「ふぅ〜ん……」
初めて会った時から感じていた、雪乃さんの違和感がさらに増した。この人、何故か確信したように話している。
単に言葉を汲み取ったとか、そんなふうに思っていたが、今のコレは絶対におかしい。
「おい、始」
雪乃さんの目線が突然俺へと向いた。
「今は余計なこと考えないで。また今度話すから」
「……わかりました」
やっぱり何か変じゃないか——とは思うが、確かに雪乃さんの言うとおりだ。今は怪異に集中するべきだろう……。
「とりあえず、あのペンションに入るって感じですか」
「いやぁ、まずは観察——」
「待って!」
舞さんの言葉を、雪乃さんが唐突に遮った。
「移動した……。今探してる、気をつけて」
「……みんな、集まろうか」
場の空気が張り詰めたことを肌で感じる。風と葉の擦れる音、虫のさざめきだけがこの場を埋め尽くす。
街灯ひとつ無い、月明かりだけが照らす足元を丁寧に歩いていると、黒い帯状の何かが俺の足の間を縫ったのが見えた。
蛇か何かと思った矢先、突然それは足にまとわりつく。そして——
「うわああッッ——」
「始ッ!」
雪乃さんの叫び声も虚しく、俺は抵抗できない程の強い力に引き摺られた。
何も見えない真っ暗な闇、身体中をそこかしこにぶつけながら、ただひたすら、延々と土の上を転がされた…………
◆◆◆
身体中の痛みで目を覚ますと、強烈な刺激臭が鼻を劈いた。
本能的に手で覆おうとするも、手が何かに捕まって身動きが取れない。いや、手だけじゃない。体も、足も、なんなら手首足首すら動かない。
姿勢は座っているらしいが、全身の動きが何故か封じられていた……。
「く、臭ッ……、なんだ、コレ……」
呼吸をしたい。だが臭くて息が吸えない。
鼻を覆いたい。だが手足が動かせない。
自由を奪われた俺に、成す術は何もなかった……。
近くに人の気配はない……。幸い自由の利く頭を動かして周囲を見渡すが、やはり誰もいなかった。
嫌な予感がしてならない。これはつまり、怪異に捕まったということだろうか——




