ep6.出動
特別編成課に入るという同意をしてから一ヶ月が経った。
俺はその時、この施設から一歩も出られないと思っていたが、全くそんなことはなかった。
生活は案外何も変わらない。今日もいつも通り学校へ行き、いつも通り家に帰ってきた。
ただ変わった事があるとすれば、霧猫の近くには必ず居るように指示されたこと。そして、怪異監視庁から端末を一つ貸し出されたことと——
『この姿もなかなか慣れたものだ』
霧猫がその名の通り、霧状に変化できるようになっていたことだ。
最初こそ驚いたが、黒い霧から今の姿になったわけだから、すぐに納得した。
それに、これのおかげで、俺が学校に行く間もついて来られるようになっている。
「もう戻っていいのに、なんでまだ霧なの」
『理由はない』
霧状のまま纏わりつくのは今日が初めてじゃない。既に慣れていた俺はそこまで気にもせず、夕飯の支度を始めていた。
『始、端末とやらが鳴っているぞ』
耳を凝らすと、カバンの中から電子音が鳴っている。急いで開けると、支給された端末に電話がかかっていた。相手は舞さんだ。
「は、はい。鳥羽です」
〈お疲れ様ー。今日はどうだった?〉
舞さんはこうして定期的に連絡をくれる。それはもちろん監視の意味があるのだろうが、内容は至って普通だった。勉強はどうだとか、ご飯は食べているかとか。俺はこの一ヶ月のやり取りで、舞さんにどこか母親の面影を感じるようになっていた。
「いつもありがとうございます」
〈大丈夫だよ。仕事ではあるけど、個人的な気持ちもあるんだ〜〉
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
最初はどこか怖いと感じた舞さんだが、こうして付き合っていると優しさを感じる場面が多い。
〈でも今日は別件の連絡でもあるの〉
「なんですか?」
〈怪異が発生したんだよね〉
俺はフライパンに油を引くのをやめ、端末を持ち直して聞き返した。
「怪異、ですか?」
〈そうなんだぁ。君たちの実地試験も兼ねて、一緒に来て欲しいんだ。そのまま迎えに行くけど大丈夫?〉
「わかりました、すぐ用意します」
〈二つ返事、偉いね〜!具体的な内容は車内で話すね。あと五分で着くと思うから、よろしく〜〉
そう言い残すと、こちらの返事を待たずして通話が切られた。
夕飯はしばらくお預けになるだろうと、急いで茶碗一杯の米を口に押し込んだ。
『私以外の怪異が現れたのか?』
「らしいよ。何するかは後で聞く」
火元の確認をして、最低限の荷物を持って玄関に向かうと、丁度車の音が聞こえてきた。
外に出ると、舞さんが車内から「乗って〜」と手招きをしている。助手席には雪乃さんも座っていた。
「お願いします——」
霧猫と共に車内に乗り込むと、見知らぬ人物がこちらを凝視していた。
屈強な肉体である事は服の上からでもわかる。背の高いミニバンにも関わらず、この図体のせいで狭く感じてしまうほどの圧迫感。太い腕のせいで、ジャージの悲鳴が聞こえる気すらした。
「雪乃、こいつが例の子か」
「そ。挨拶して」
とりあえず乗り掛けのままはまずいので、後部座席に座ってシートベルトを締めた。
「俺は行動一課の〝椿哲也〟だ」
「初めまして。えと、特別編成課の鳥羽始です。こいつは——」
『霧猫だ』
「そうか。初仕事で不安だろうが、よろしく頼む」
見た目の割に、立ち振る舞いが丁寧なのが印象的だった。そんなに怖い人じゃないのかもしれない。
「はーい、自己紹介は終わりだね?じゃあ行くよ〜」
舞さんがハンドルを握ると、助手席の雪乃さんが身を乗り出し、俺の方へ顔を向けた。
「おい始、口閉じとけよ」
「え?」
「舌噛むぞ」
雪乃さんがそう言うと、車は急発進した。
強烈な慣性に引っ張られ、背中をシートに張り付けられた時、この前の送迎は本当に気を遣ってくれていただけなのだと確信した。
大通りに出てもその勢いは衰えを見せない。日が暮れた国道を舞さんの駆る白のミニバンが、一般車を縫うように駆け抜けていく。
右へ左へと体を大きく揺らされていると、酔うとか気持ち悪いとかいうものをすっ飛ばして、ただただ怖いという感情だけが顔を覗かせた。
目まぐるしく変わる景色に目を回していると、「そうそう」と舞さんが切り出した。
「今から向かう怪異の説明だけするね〜」
「え!?この状況でですか!?」
「えっとね——」
スピードメーターは三桁を維持させたまま、舞さんはいつもの調子で語りだした。
場所は隣町の山奥。廃墟となったペンションが一棟あるらしい。そこに発生した怪異の調査を行うそうだ。
細かい見た目やらなんやらの話もしてくれていたが、眩暈がしてきて覚えているのはそこまでだった……。
◆◆◆
「着いたぞ、始。大丈夫か」
「う、うう……」
山に入ってからは特に酷かった。終始タイヤは鳴っていて、体を支えていないと吹っ飛んでいくほどの横揺れに、俺は既に限界手前だった。
哲也さんは流石に見かねたのか、その太い腕で俺をそっと抱き抱え、そのまま外へと連れ出してくれた。
「舞さんにハンドル握らせるからこうなんのよ」
「じゃあ雪乃ちゃん、運転頼める?」
「この中で免許持ちは舞さんだけでしょ……」
つまり帰りもこんな運転が待っているって事だろうか……。
「……あれ、霧猫は?」
『ここだ』
声のする方を見ると、車の屋根に乗っていた。
『なかなか面白いものだったぞ』
「……お前まさかずっとそこに?」
『屋根に張り付くことぐらいどうということはない』
そういえばこいつも怪異だったな——と、どこか呆れたような気持ちになりながら、深呼吸をした。
改めて目の前の景色を見ると、月明かりに照らされた深い森が、はるか奥まで続いている。その小脇に、人が通れそうな獣道が見えた。
ただそれだけなのだが、妙に静かなのが気持ち悪い。
何か本能が近づくことを拒否するような、得体の知れない違和感がその森から溢れているのがわかる。
「今回の怪異、噂から生まれた存在だから時間との勝負なの。噂が広まるほど強力になるからね」
舞さんは車の鍵をポケットに入れながら、スタスタとその獣道へと向かう。
「〝体現型怨恨性怪異〟の疑いがあるの。嘗めてかかると死ぬからね〜」
振り返りざまに浮かべた笑顔が、肝を冷やした。




