ep3.名前
『開口一番に偏見で物を語るか。なかなか面白い』
「面白くも何ともねえよ。お前は何だ、答えろ」
霧猫と雪乃さんの間に、ただならぬ空気が流れている中、俺はいつの間にか舞さんにそっと腕を掴まれ、そのまま背後へと回されてしまっていた。
『そうだな……、私は私だ。今はそうとしか言えぬ』
「ふざけてんじゃねえよ」
『ふざけてはいないのだがな』
霧猫は変わらない様子で顔を撫で、欠伸をしている。ただ、前に立つ雪乃さんから視線を逸らしていないのがわかった。
この二人の間に割って入ろうとは思えない。それぐらいの険悪な雰囲気に、思わず身じろいでしまう。
『して、主らは先ほど、私のことを〝怪異〟と申していたが、それは真か?』
「……本気で言ってんのか?」
『生憎、冗談を言えるほどの教養は持ち合わせておらんのでな』
どこか気の抜けた様子の雪乃さんは、そっと振り返って大きなため息をついた。
「念のため色々聞いたけど、本当っぽいね。全部」
「嘘はついていないんだね、わかったよ」
入れ替わるように舞さんが霧猫の前へ向かい、腰を下ろして視線を合わせた。
「やあ。単刀直入に聞くね。君は敵かな?」
その言葉に一瞬胸が激しく脈打った。そんな次元の話が出てくるなんて想像もしていない。それに、もし霧猫がそうだと答えたら一体どうなるのだろうか。
時間にして数秒もなかったはずだが、膨大な量の嫌な考えが一瞬で頭に湧いていた。
霧猫はというと、相変わらず落ち着いた様子だった。
『何を以って敵とするかが分からんのでな、答えられん』
「じゃあ聞き方を変えるね。人に危害は?」
『理由がない』
「この世に恨みは?」
『皆無だな』
「人を殺したい?」
『興味もない』
舞さんの調子は変わっていない。優しい声色で、子守唄のようだ。ただ、それとはかけ離れた言葉の重みで、背筋が凍るようだった。
そしてそれに物怖じせず、まるで効果がないらしい霧猫は涼しい顔のままだった。
そんな霧猫のことを、舞さんは数秒見つめていると、一息入れてゆっくり立ち上がり、俺の方へと振り返った。
さっきまでと同じ優しい笑顔を見せてくれるが、今の霧猫との応酬を見た後だと、その裏にある顔が見えなくて少し恐怖を覚えた。
「ねえ、始くんだっけ。彼とはいつから一緒にいるのかな?」
「えっ、あの、夕方からだから……、数時間前からです」
嘘はついていないはずだ。寝落ちしたとはいえ、あれから陽が落ちただけなのだから。
「なるほど。じゃあ最初に会ったのはいつかな」
「最初に会ったのは数日前で、場所は公園の植え込みです。黒い霧が気になって、毎日会いに行ってたんです。それで今日〝霧猫〟って呼んで——」
雪乃さんは目を瞑りながら何度か相槌を打っていたが、突然「待って」と言葉を遮った。
「……あんた、名前をつけたの」
「え?はい」
「冗談キツいわよ……」
雪乃さんは舌打ちをしながら舞さんの方を向いて、〝お手上げ〟と言わんばかりに両手を上げた。
——なにかまずい事でもしたのだろうか。
「知らなかったでは済まないんだけど、それ」
「雪乃ちゃん、始くんは正直に話してる?」
「そうね……、本当に何も知らなかったみたい。故意とは言えないわ」
困惑する俺を放置して、雪乃さんと舞さんは顔を寄せて小声で話している。耳を傾けても何も聞こえない。
しかし思い返してみれば、霧猫と名前をつけた時に、こいつは霧から猫へと変化した。名前をつけただけでこんなことになるのか?
『無知は時に罪となるぞ、始』
「お前が元凶だろお前が……」
『私は何もしておらぬ』
「こいつマジで……」
霧猫と話していると、舞さんが俺の方を向いて静かに口を開いた。
「怪異に名前をつけるということはね、簡単にいえば怪異の存在を認めるってことなの」
悪いことをしたつもりは全くないが、相当まずいことは会話の流れで察しがつく。
俺は力無く、「はい……」とだけ答えてしばらく項垂れた。
「怪異に遭遇したら役所に連絡するって、学校で教えてる筈なんだけどね……」
「あんたもしかして、人の話聞かないタイプ?」
相談するために連絡した筈なのに、こんなに詰められるとは思いもしなかった。
怖い思いもして、恥ずかしい思いもして……。こんなことなら連絡しなければよかった。
『人の話を聞かないのか。それは所謂、社会不適合者というらしいぞ』
「おま、えげつないなマジで……」
『始は社会不適合者なのか?』
「お前マジでさぁ……」
「ぷっ……」
吹き出すように笑ったのは、雪乃さんだった。さっきまでの喧嘩腰からは想像がつかない、年相応の可愛らしさが滲み出ている。
その場の全員に見られていると気がつくと、咳払いをして素顔に戻った。
「で、この〝霧猫〟のこと、他に誰が知ってるの?社会不適合者くん」
……もう弁明する機会も与えられないらしい。このことは真に受けず、そして余計なことも言わず、ただ大人しく質問に答えている方がいいだろう。
「……多分、俺だけです。今日の今日ですし、夕方からは誰にも会ってないから」
それには少し安心したのか、二人の表情がほんの少しだけ柔らかくなる。それを見て俺もようやく一息付けたような気がした。
「さて、じゃあどうしましょう」
「どう……って?」
「怪異は怪異だからね、それなりの対応はしないと。その為の〝怪異監視庁〟だからね」




