ep2.怪異
はっと目を覚ます。夕日は既に山に隠れ、藍色の空が窓の外に広がっていた。
『起きたか、始よ』
瞼を擦る俺の前に、霧猫がひょいと跳んで来た。
どうやら、あれからそのまま床に仰向けに寝てしまったらしい。できれば夢であって欲しかったが、背中の痛みがそれを否定する。
「……で、何をしたいんだ」
寝てしまう前の質問に、霧猫はちゃんと答えてくれていない。そう思って聞くと霧猫は——
『知見を広げたい』
と平然と答えた。
『お主が寝ている間、いろいろ調べていた』
何のことだと思い、ぼやけた目で部屋の中を見渡すと……
「……最悪だ」
本棚に納めていた本は全て倒され、アルバムは中身が散らかり、教科書やノート、書類なんかも全て開いたまま床にぶちまけられている。
それこそ、猫が暴れた跡そのものだった。
『なかなか興味深いものだったぞ、始』
「ああ、そう……」
『ふむ、怖いとは思わなくなったらしいな』
「今は〝怖い〟より〝辛い〟だからな……」
頭を抱えたままの俺を一瞥して、霧猫は一冊の本に脚を置いた。
『時に始よ、お主のこともいろいろ知れたぞ』
霧猫の脚の下にあるのは、俺のアルバムだった。
『随分と可愛がられたらしいな。それに、動物が好きなのだな』
そう言いながら、前脚を器用に使って写真を目の前に差し出した。両親と共に動物園で撮ってもらったものらしい。だが、その時の記憶はまるでない。
『だが、両親は既に他界。今は親戚の仕送りで生活している……。そうだな?』
「……なんだよ、そんなことまで調べたのか」
『飽くなき探究心は魂を潤すものだ。それ故、お主も勉学に励むのであろう?』
「それとは違う気がするが……」
霧猫は机へ飛び上がって鉛筆を咥える。そうしてゆっくりと俺の方へ向くと、こっちへ来い——と言わんばかりの目つきで、じいっ……と凝視している。
促されるまま、痛む体を伸ばしながら机へ向かうと、広がったままのノートにひどい落書きが残されていた。
『お主が羨ましい。私には文字を起こすことができないのだ』
しかし不思議な生き物だ……。言葉を話し、文字も読める。文字こそ書けないらしいが、人のような手があれば、きっと書いているのだろう。
いや、そもそも生き物なのだろうか——という疑問が、慣れてきたことでようやく浮かんできた。
『ところで始よ、コレは何だ』
丁寧に差し出してきたのは、カバンの奥底に入っていたであろう学校のプリントだった。
渋々受け取って内容を見ると、〝異常現象に気をつけよう!〟という、ポップな雰囲気でありながらどこか不気味さを感じる、注意喚起のお知らせだった。
『〝怪異には近づかない!〟と書いてあるが、怪異とはなんだ』
「怪異?いや、聞いたことはあるけど、そこまで詳しくないかな……」
『私なりに調べたが、〝説明できない現象〟としか理解できんのだ』
「なんだその……」
お前みたいな——そう言いかけて口を閉じる。今更になって、それこそ霧猫が〝説明できない現象〟そのものだと思い知らされる。
つまりこいつは、異常現象——怪異、ということなのだろうか。
『何を考えておる』
「……いや、何も」
誤魔化すように視線を逸らすが、こいつはどうも勘がいいらしく、『私の事か?』と低い声で淡々と問いかけた。
『確かに、私は私を説明できぬ。私がその〝怪異〟という存在なのであれば、ここに連絡してみてはどうだ』
プリントの下の方へ目をやると、そこには〝お住まいの役所まで、お気軽にご相談を〟と書かれていた。ご丁寧なことに、終日対応の窓口まで用意しているらしい。
こいつを放っておいても問題はなさそうだが、何かあっては遅い。早めに相談してみることにしよう。
◆◆◆
役所へ連絡をしたところ、直ぐに向かうと言われ、俺は急いで部屋の片付けを始めた。
『何をしておる』
「見て分かれよ、お前が起こした惨劇の後始末だよ」
『忙しいな、客人が来る前にへたばるぞ』
「お前のせいだっつってんだろ?」
霧猫は相変わらず、呑気に座り込んで大きな欠伸をしている。それを横目に掃除をしていると、家の前に車が停まる音がした。
玄関を開けると、女性二人が立っていた。てっきりスーツ姿かと思ったが、意外にも街で見かけるような装いだった。
背の低い方は茶髪で、ベージュのブラウス。大人びた方は果物のような橙色の髪に、白のブラウスと、季節外れの青いスカーフを巻いている。
ふと、背が低い方の女性と目が合うと、不機嫌な顔をしながらぐんぐん近づいてきた。
ドスドスという音すら聞こえてきそうな力強い足、そして刺すような鋭い目……。
——俺はその圧に思わず扉を閉めてしまった。
「……は?おい、開けろよ!お前が連絡したんだろ!?」
「いや人違いじゃないですかね!?」
玄関を無理矢理に開けようとする手を、もう一人の女性が制止した。そして扉の隙間からそっと顔を覗かせたのはその女性で、なんだか良い匂いもした。
「いきなりごめんね、大丈夫?」
「……大丈夫です」
「連絡をくれたのは君かな」
小さく頷くと、開けるように催促され、渋々扉を開けた。
「改めて、怪異監視庁統括局行動一課、主任監の〝八風舞〟です、よろしくね。隣の怖いお姉ちゃんは——」
「行動一課、〝梁坂雪乃〟。連絡してきた怪異ってのはどこ。早く見せて」
こんな人達が来るなんて思ってもいなかった。〝気軽に相談〟なんて書くんじゃねえよ——そう思いながらそっと振り返ると、霧猫が足元までやって来ていた。
『なんだ、騒がしい』
ふと、玄関前の二人の動きが止まった。
「雪乃ちゃん、アレ——怪異だよね」
「うん、間違いない」
油断した俺の隙をついて、二人は半ば強引に玄関の中へと入り込み、霧猫の前に立ちはだかった。
『ふむ、人の家へいきなり入るのは、些か非常識だと思うが』
「非常識な存在が理屈言ってんじゃねえよ」
——連絡したのはまずかっただろうか。




