ep1.霧猫
夕暮れ時の子供たちも帰った公園の片隅で、俺は通学カバンを肩にかけたまま、膝を抱えて植え込みの隙間を凝視していた。
「……何だコレ?」
掴みどころのない、黒い霧の様なぼやけた像。
手を伸ばすと、その霧は匂いを嗅ぐ様に、恐る恐る近づいては引っ込む。その姿はまるで子猫の様だ。
興味が湧いた俺は、次の日も、また次の日も、人目を避けてその霧に会いに行った。
しばらく通っていると、俺に気づいて近寄ってきたり、帰る時には動きが鈍くなったり、ちょっとした変化があった。
そしてある日、初めて会った日よりも霧が濃くなっていることに気がついた。
「お前、名前は?」
問いかけに反応はない。霧に話しかける様は、馬鹿みたいに思えた。それでもこの霧には、どこか無視できない愛着が湧いていた。
「決めた。お前は今から〝霧猫〟だ」
猫の様に振る舞う霧。だからそう名付けた。
すると霧は次第に濃くなり、透けていた地面は見えなくなった。
植え込みのわずかな隙間を埋める体躯が現れ、四肢が伸びる。耳らしきもの、二つに裂けた尻尾の様なものも生える。
やがてそれは、黒い艶のある体毛を纏いながら、赤い目を光らせる一匹の猫の姿となった。
猫らしく前脚を使って顔を数回撫でる。そしてこちらをその真っ赤な瞳で、じいっ……と見つめると、ゆっくりと口を開いた。
『やあ、人間』
言葉を失ったままの俺を置いて、目の前の霧猫は言葉を続ける。
『〝霧猫〟か……。いい名前だ』
ところでお主の名前はなんだ?——と問われたところで、俺は怖くなり、その場から逃げ出した。
◆◆◆
家に着くなり、自分の部屋へと駆け込んでカバンを乱雑に投げ、ブレザーとネクタイも外さないまま、布団の中へと潜り込んだ。
何かやってしまったかもしれない——あの公園での出来事が、全て夢だったらと思いながら目を瞑っていると、窓の外から何かを引っ掻く音が聞こえてきた。
『おい、何故逃げる』
さっきの声と同じだった。猫の体からは想像がつかない妙に低い声。時折猫の様な声も出すが、それが一層気味の悪さに拍車をかけている。
それにこの部屋は二階。窓枠に猫が脚を置くスペースなど無いはずだった。
俺は今までに感じたことのない恐怖、それと後悔を抱える様に、さらに布団に強く包まった。
するとため息が聞こえ、引っ掻く音が消えた。
ようやくどこかへ行ってくれたかと、ゆっくり布団から顔を出す。
——こちらを覗き込む、ガラス玉のように輝く血の色をした瞳と目が合った。
布団を放り投げて壁際に張り付くように飛び退くが、腰が抜けて一歩だって歩けそうに無い。
顔を引き攣らせながら、脂汗を額に垂らす。目の前の猫は呆れたような態度だった。
『私が怖いか?』
俺はずるずると滑り落ちるように壁から床へとへたり込む。声も出せないままに頷くと、猫は呆れたように相槌を打った。
『で、お主の名前はなんだ?』
ここで答えても良いのかどうか見当もつかないが、答えなければ何かされるような気がして、震える口と浅い呼吸を整えながら、上擦る声で答えた。
「と、〝鳥羽始〟、17歳……」
それからの数秒の間は、ひどく長く感じた。周りの音も、何もかもが遠のいた様に感じ、この世界に俺と目の前の猫だけが居るような錯覚をさせる。
『始か。改めて〝霧猫〟という名をくれたこと、礼を言おう』
猫の仕草ではあまり見かけないような、深々と頭を下げた。その様子を見て恐怖が少し和らいだのか、浅かった呼吸は徐々に落ち着きを取り戻した。
『だが、何故私に名前をつけたのだ』
「……な、何故って?」
『理由は知りたいだろう』
さも当然のように聞かれるが、ただ呼びやすいから——なんて理由しかない。
それをそのまま伝えると、霧猫は肩を少し上げる。人間で言うところの動揺か、それとも笑いか。見ただけでは少しわからない。
『はは、そうかそうか……。まあいい、こうして逢えたのも何かの縁だ。始よ、これから世話になる』
「……へ?」
そうして、窓の近くに置いてある箪笥の上に飛び上がると、そこに小さく収まるように座り、二又の尻尾をゆらゆらと揺らしながら、俺の方をじっと見つめる。
「……お前は、なんなんだ」
恐る恐る、刺激しないように慎重に聞く。
霧猫は二、三度瞬きをすると、大きな欠伸をした。
『私は私だ』
……何もわからない答えにしどろもどろしていると、霧猫は宥めるような声で呟いた。
『何、怖がることはない。お主を食うつもりもない』
「……じゃあ何がしたいんだ」
『うむ……。今は眠いのでな、少し寝るぐらいだ』
そう言うと、また顔を撫で、その場で丸まりそっと目を閉じた。
窓から差し込む夕陽に照らされて、初めて耳にイヤリングが付いていることがわかった。
何が起きたか全て理解する前に、張り詰めていたものが切れたせいか、途端に眠気が押し寄せてきた。
そのまま俺は力無く床に仰向けに倒れ、そっと目を閉じてしまう。
——俺は何か、触れてはならないものに触れてしまったのだろうか。
※本作は「カクヨム」にも掲載しています。




