ep15.感情
思う存分に撫でまわし、満足したらしい香奈さんは満面の笑みで立ち上がる。霧猫は猫とは思えないため息をついて、俺の元へと寄ってきた。
『……疲れた』
「お疲れ」
時間にして一分かそこらだが、昨日の調査後よりも疲れているのがわかる。
「香奈。この後やることあるんだから、早く行くぞ」
「げっ、本当に行くんですか……?」
香奈さんの顔からさっきまでの笑みが引っ込み、代わりに引き攣った表情が浮かんだ。
「えっと、どこか行くんですか?」
「ああ、舞さんのところにね」
それを聞いて、香奈さんの反応に納得した。本当に舞さんのことが苦手――いや、ここまできたら怖いのだろう。いい人であることは間違い無いんだけどな。
「昨日の今日だから、色々やることも話すこともあるらしくてな」
俺の採用時と対応が少し違う気がするが、気にしても仕方ないだろう。
「始くん、助けてくれない……?」
「無理です」
「えぇ〜ん……ひどい……」
この人本当に怪異なんだろうか……。絵に描いたような泣き真似をしだすあたり、人に馴染んでいるとかじゃなく、もう人だろ……。
「あ、でも着いて行くのはいいですよ」
「本当!!?」
「ああいや、帰り道知ってるの舞さんだけだから……」
「あ〜…………」
この後会うことは避けられないと悟ったらしい香奈さんは、その場に座り込んで、放心したように天井を見上げながら指同士をツンツンと合わせだした。
「なんか、怪異は怪異でも、なんか……、なんというか……」
「〝人〟って言いたいんだろ?」
「……ええ、まあそうです」
「その辺の話とかもしてくれるそうだから……、とりあえず、用意できたら行こうか」
こんなやりとりをしている間に、洗濯機の音が止まり、乾燥を終えたことを告げる。二人には少しだけ待ってもらって、洗い終わった服を取り出して着替えた。
こうして使ってみると、乾燥機付きの洗濯機への憧れが強くなる。干さなくていいのが楽すぎる。こんなに便利なら、いつかは欲しいものだ。
◆◆◆
滞在室を出て、案内表示が示す〝行動一課〟に向かった。
午前中とはいえ、意外と人は見かけない。少なくとも、来客はないということだろうか。
灰に染まるタイルカーペットの道を進んでいくと、やがて行動一課と張られた扉の前へと辿り着いた。
「失礼します」
ノックと挨拶をして部屋を開ける。職員室以外でこの作法を使ったのは初めてで、正しいかどうかは正直分からない。
「あ、起きたの。おはよう」
最初に目があったのは雪乃さんだった。隣には哲也さんもいる。二人してデスクで何か作業をしているらしい。
「おはようございます。えっと、舞さんはいますか?」
「ああ、舞さんなら――」
雪乃さんの視線の向く方には、舞さんの後ろ姿があった。椅子に座り、ガラス張りの向こうに見える、朝の景色を眺めているらしい。
雪乃さんに一礼をして、俺は舞さんのデスクへと向かった。近づくたびに、何かいい香りが漂ってくるのがわかる。
「舞さん、おはようございます」
「ふんふん〜……」
……鼻歌を歌いながら、目を瞑っている。デスクには淹れて間もない紅茶が湯気を立てていた。どうもご機嫌な朝を迎えているらしい。
これは邪魔するのは申し訳ないか――と思っていると、丁度その紅茶を取ろうとしたのか、舞さんはゆっくりとチェアをこちらへと回した。
「ふんふん〜…………ッわぁ!?」
「あー……、おはようございます……」
薄らと開けた目で俺に気づいた途端、まん丸に目を開けて椅子を引く勢いで驚いた舞さんは、いつもとは少し違う印象があった。
「……あちゃー、恥ずかしいところ見られちゃったねぇ〜」
そう言いながら、ワイヤレスのイヤホンをそっと耳から外し、改めて挨拶をしてくれた。
「いい朝だね、こんな朝はペールギュントに限るよ」
「ペー……?」
「ペールギュントの〝朝〟って曲だよ〜」
よく耳を凝らすと、ワイヤレスイヤホンからは何かクラシック音楽が流れ続けている。俺にはさっぱりだ。
「さて……、始くんが来た理由はなんとなくわかるけど、ごめんね。ちょっと後にしようか」
そう言って立ち上がり、舞さんは置いてあった書類を手に取って、俺の後ろに立つ二人、修一さんと香奈さんにそれぞれ渡した。
「丁度いいし、始くんも一緒に聞く?」
「え、ペー、なんとかですか?」
「いやいや、まあ私は嬉しいけど。香奈ちゃんの事についてだよ」
「……?」
「ほら、一応君の〝後輩〟になるからね」
「あぁ、そうだった……」
会議用か何かの大きめのテーブルと、それを挟むように配置されたソファに案内され、俺、香奈さん、修一さんと並んで座り、対面するように舞さんが座った。
そして、霧猫は何故か舞さんの方へ向かい、その隣で丸まって眠り出した。
「さてと――」
「……あの、一つだけいいですか?」
「ん?なにかな」
恐る恐る手を挙げ、震える声で質問をしたのは香奈さんだった。
「……遺書とか書いてもいいですか?」
その場の全員が呆気に取られていると、少し離れたところから「ぷっ……」と笑いを堪える雪乃さんの声が聞こえた。
「書かなくて大丈夫だよ。というか、そんなに怖がられちゃうと、ちょっと傷ついちゃうな……」
「すすすす、すみませッ、ヒッ……」
――この人、感情に素直すぎる。




