ep10.主任監
「危ない!」
咄嗟に言葉が出るが、手を差し出すだけの勇気は出なかった。
そして、俺の声に呼応するように、ざわめく髪が男の手足に絡みついた。
「なっ——ちょ、離れねえ——ッ!」
なんとかしたいが、その異形に近づく事ができない。今はまだ絡まっているだけだが、もしこれが四肢を引き裂くようにしたら――そう思うと、腰が抜けたように床にへたり込んでしまった。
——俺は、触れてはいけないものに触れてしまった。
男は髪と俺、交互に罵詈雑言を向けているが、一言だって聞き取れないほど、目の前の現象に怯えていた。
もうおしまいなのだろうか。この男も助けられず、そして俺もここで死んでしまうかもしれない。
結局立ち上がることすらできないまま、俺は男がそのまま壁に磔になるように拘束されていくのを、黙って見ているしかなかった。
その時、廊下から少し離れた場所で何かが崩れる音が聞こえた。
だが振り向けない。もし目を逸らしたら、俺も襲われる気がしたから。
それを知ってか知らずか、そこから走る音がこちらに向かって来る。脆い床を踏み抜く勢いで近づく音の主は、俺に覚悟を決める間も与えない速さで、俺の正面までやってきた。
「始くん、お待たせ!」
「ま、舞さん——ッ!」
舞さんは安心したのか、ほっとしたように、その場にしゃがんで俺の顔を見つめた。
「ほんと、びっくりしたんだからね。突然引きずられてくんだもん……」
「そ、そんなことより後ろ……!」
「ん?」
その間にも、男は壁に磔になっている。叫びすぎて疲れたのか、今は項垂れているばかりだ。
「うわぁ〜、すごいねぇコレ!髪?」
「……いやいや!助けないと!」
「そうだね〜。うーん、でもどうしよっか」
舞さんは縛られたままの男の側まで近づく。そして、その髪を怖気付くこともなく、じっくりと観察していると、男の拘束が少しずつ解かれていった……。
「あれ?何もしてないんだけどなぁ」
「はぁ、はぁ……、なんなんだよお前ら……!」
「君には関係ないよ〜」
「うるせぇ……!お前らの仕業だろうが!」
男はついにキレたのか、ポケットから光る何かを取り出した。この暗闇でもその冷たさが伝わる、鋭利なナイフだった。
「舞さん、危ない!あれナイフですよ!」
「わぁお。物騒だね〜、怖いなぁ〜」
「嘗めた口利きやがって……!」
ナイフをちらつかせたまま、男は少しずつ舞さんの方へと寄っていく。しかし肝心の舞さんが全く動じない。なのに、強がりとか威嚇とか、そんなものは一切感じない。
「ふふ、やめた方がいいかも?」
「命乞いは聞かねえよ、どうせ口封じで殺すつもりだったからな!」
男は勢いよく舞さんの懐に飛び込み、そして——
「ぐっ……」
何か鋭い音と共に、床に赤い液体が滴り落ちた……。
「舞さん!」
「んー?呼んだ?」
——いや違う、これは舞さんの血じゃない。よろよろと後ずさる男の手から血が出ている。
よく見ると、折れたナイフの先端が、男の右手首に突き刺さっている。そこから夥しく血が流れているようだった。
「ふふん、防弾チョッキだよ〜」
「ふざけ、やがって……この野郎……!」
「だから言ったのに〜。人の話はちゃんと聞くんだよ?」
男は頭に血が上ったままなのか、左の拳を固めて大きく振りかぶる。
「死にたいの?」
語気を強めた訳でも、まして怒鳴った訳でもない。なのに、その一言で男は凍りついたように動かなくなった。
「うんうん、偉いよ〜」
「……なんなんだよ、お前」
「知ってどうするのかな?」
これだ、舞さんの妙に怖いところは。
この前も、そして今も、包み込むような柔らかい笑顔は一切揺らがない。なのに、言葉だけが刃物のように鋭くなって、こちらの首元に添えられるような冷たさを覚える。
「ほらほら、早く出た方がいいんじゃない?私の来たところなら、開いたままだと思うよ〜」
それを聞いた男は、右手を押さえたまますぐに走り出した。一言も発さず、文字通りこの場から逃げた。
「……舞さん、あの人——」
「知ってるよ?人を殺したかもしれないんだよね〜」
「な、なんでそれを?」
「うーん、後で雪乃ちゃんに聞いた方が早いかも?」
雪乃さんに?と思ったが、確かに聞きたい事は山ほどある。
「さてさて。実地研修のつもりで来たけど、始くん、とんだ災難だったね、監督不行き届きでごめんね……」
「……いやまあ、生きてるからいいですけど……。それより、いつもこんな感じなんですか?」
今回だけが特別に酷い方であってほしかったから聞いたが、悪いことに舞さんは「まあそうだね〜」と気の抜ける声で答えてしまった。最悪だ。
「森のコックさん、始くんはどこまで把握した?」
「えと、その前に俺たちも出ませんか……?」
「え、なんで?」
「もうここキツいです、何起こるかわかんないし……」
髪に連れ攫われるわ、椅子に縛られるわ、遺体はあるわ、髪に襲われるわ、碌な事がない。何よりずっといたら、この死臭が体に染み付いてしまう。もう手遅れかもしれないが。
「それもそうだね、んじゃ出よっか」
舞さんに案内され、入ってきたという場所へと向かう。
「……あの、コレですか?」
「そうだよ〜」
……木造の壁に、人一人がスッと通れるような丸い穴が開けられている。破片の飛び散り方具合から、最近できたものらしい。まさかこの人が開けたと言うのだろうか……?




