第9話 二人きりの三者面談
三者面談の日が来た。
とはいえ、俺の場合は二者面談だった。
本来なら保護者として参加するはずの三人目は今ごろ南の島で、朝と夜の区別もなく酒を飲んでいる。まさか例の黒いスーツの国家公務員に、保護者役で来てくださいと頼むわけにもいかない。
……あの人なら案外、張り切って来そうだから困る。
放課後、俺は進路相談室の前に立った。
ドアの向こうから、コツ、コツ、と一定の音が聞こえる。ありがたいことに、面談前から相手の機嫌はあまり良くないらしい。
俺は一度だけ息を吐き、ドアを開けた。
権田正則が机の向こうに座っていた。
右手には赤ペン。その先で、机の同じ場所を規則正しく叩いている。左手首の銀色の腕時計には、目立つ傷がない。扱いは丁寧らしい。ただ相変わらずベルトは皮膚へ食い込み、時計は手首の骨の内側からほとんど動く余地がなかった。俺なら一つ緩める。あれでは時計にも腕にもよくない。
「座りなさい」
俺は向かいの椅子へ座った。
机の上には、俺の進路希望調査票が置かれていた。
希望進路。希望学部。保護者希望日時。
名前以外は、だいたい白い。雪景色ならきれいだったかもしれない。
「保護者は」
「来ません」
「連絡は?」
「つきません」
権田はため息をつき、赤ペンで俺の名前を叩いた。
「これでは三者面談にならない」
「二人しかいないので、今日は二者面談ですね」
「屁理屈を言うな。今日は本人面談として進める。保護者との面談は後日だ」
「設定できればいいですけどね」
「おまえが他人事のように言うな」
母親なので他人ではない。ただ、身内と呼ぶには家にいなさすぎる。
「本人の希望進路まで空欄だ。高校二年の春だぞ? 進学か就職か。地元に残るのか、市外へ出るのか。少なくとも方向性くらいは考えておく時期だ」
「方向性」
「将来、何をしたいのかと言い換えてもいい」
何をしたいのか。
答えがないわけではなかった。
時計技師。
最初に直したのは、母親の腕時計だった。
まだ小さかった俺は、時計が遅れているから、母親も時間どおりに帰ってこないのだと思っていた。だから直した。これでもう、ちゃんと帰ってくると思った。
時計は直った。秒針は一秒も遅れず進んだ。
でも、母親の帰る時間までは直らなかった。
紙に書くだけなら四文字で済む。
けれど、この街にはその技術を学べる学校がない。書いた瞬間、市外へ出る金も住む場所も、母親の同意も必要になる。隣に座るはずの人間が南の島にいる状態で、俺一人が希望だけ書いても、それは進路というより願望だった。
「ないのか」
「書けるなら書いてます」
「理由を話さなければ、教師には何もわからない」
「話せばどうにかなるんですか」
「どうにかするために話すんだ」
正論だった。母親が聞いたら、たぶん頭痛を訴える。
「家庭に事情があるのは、おまえだけじゃない。それでも皆、自分の将来を決めようとしている。家庭が複雑だからといって、おまえだけ白紙でいい理由にはならない」
「白紙で出したいわけじゃありません」
権田は調査票を手に取った。
「父親欄、保護者希望日時、本人の希望進路。久世、おまえの周りには空欄が多すぎる」
「生まれた時からそうなんで」
「開き直るな」
「『おはよう』もない家で育った俺に、何を求めてるんですか」
赤ペンの先が、空欄の上で止まった。
「それでも、誰も勝手に埋めてはくれない」
「でしょうね」
「空欄は、放っておけばただの空欄だ。だが、まだ書けるということでもある」
俺はすぐに皮肉を返すはずだった。なのに、言葉に詰まった。
小学校でも中学校でも、母親が来ないとわかると、教師はそのうち俺のことまで諦めた。
この男は、少なくともまだ諦めてはいないらしい。
それが少しだけ、厄介だった。
俺は鼻で笑った。笑わないと、少し気まずかった。
「いいか久世。高校は、席に座っていれば自動的に卒業できる場所ではない。ここに残るには、残るだけの姿勢を示す必要がある」
末永の「席ねえじゃん、オレら」という言葉が頭をよぎった。
「そういえば、末永に自主退学を勧めたそうですね」
赤ペンの音が止まった。
「本人から聞いたのか」
「教師なら止めるところじゃないんですか。辞めろって背中を押すんじゃなくて」
「末永は暴力事件を起こしている。自分の正しさを理由に規則を破る。学校という集団に適応できないなら、環境を変える選択肢を示すことも指導だ」
「変わるのは、いつも追い出される側なんですね」
「追い出してはいない」
「じゃあ、ここに残るための選択肢はないんですか」
「学校は、すべての生徒にとって最善の場所とは限らない」
それだけを聞けば、間違ってはいない。
この男の言葉は、ときどき正しい。
だからこそ、余計にたちが悪かった。
「……もしかして、城戸先輩にも、同じことを言ったんですか」
「城戸隼人か」
「去年、退学した」
「成績は振るわない。教師には歯向かう。校則も守らない。本人が適応する気を失っていた以上、無理に通わせ続ける必要はないだろう」
「本人が、ですか」
「最終的に退学を選んだのは城戸だ。なにも私が首に鎖をつないで、むりやり退学願を書かせたわけじゃない」
「鎖が見えなきゃ、何をしても自由意思になるんですか」
赤ペンが机を強く叩いた。
コツッ。
「久世。おまえ、やけにはみ出し者の肩を持つじゃないか」
城戸先輩。末永。
たぶん、その中には俺も入っている。
「肩を持っているつもりはありません」
「集団のルールを守れず、自分の感情も抑えられない。そういう人間が周囲から距離を置かれるのは、ある程度仕方のないことだ」
「仕方ない」
「社会とはそういう場所だ」
権田は椅子の背もたれへ体を預けた。教師というより、採点を終えた審判みたいな顔だった。
「きのう落ちた女もそうだ。十年前にこの高校を辞めた時点で、あの子はまともな道から外れていた」
権田は左手首へ触れた。腕時計は最初からずれていない。それでも親指で文字盤を押し、手首の骨の内側へ戻した。
「まともな道って、なんですか」
「少なくとも、自分の居場所を自分で壊さない道だ」
「辞めた人間は、みんな自分で壊した側ですか」
「全員とは言わない。だが、途中で投げ出した人間には、それ相応の理由がある」
「城戸先輩も、きのうの人も、末永も?」
「久世、おまえ自身もだ」
権田は静かに言った。
「忘れるな。今はおまえの進路の話をしている」
「父親の名前も書けない。母親は面談にも来ない。そういう家庭で育てば、学校へ斜に構えたくなる気持ちも、わからないわけではない」
「親のことは関係ないでしょう」
「関係ある。家庭は子供の基礎だ。今日ここに親がいないことが、何より物語っている」
椅子の脚が床を擦った。
「取り消してください」
「事実だ」
「取り消せって言ってるんです」
「そうやってすぐ感情的になる。末永と同じだ」
「攻撃じゃないんですか」
「指導だ」
指導。
便利な言葉が、また机の上へ置かれた。
赤ペン一本で、人間の正解と不正解を決められると思っている男の言葉だった。
「今日の面談はここまでだ」
権田は灰色のクリップボードを机の中央へ置いた。
「最後に、ここへ署名しなさい」
権田が、三枚複写の面談実施確認票と黒いボールペンを差し出した。
進路について指導を受けたこと。次回までに希望欄を記入すること。保護者を伴って再度面談すること。
さっきの話が、感情の入る余地もない文章で並んでいる。
「下まで写るように、強く書け」
「三枚も必要なんですか」
「記録用だ。余計なことはいい」
俺は言われたとおり、署名欄へ少し力を込めて名前を書いた。
権田は用紙を引き寄せ、一枚目をめくって下まで名前が写っていることを確かめた。
「よし」
妙に満足そうな声だった。
「……ずいぶん念入りですね」
「書類は不備があれば無効になる。それだけだ」
権田が用紙を重ね直した拍子に、シャツの袖がわずかに上がった。腕時計の下で、皮膚が赤くへこんでいる。
「その時計、一段緩めた方がいいですよ」
「面談と関係のない話をするな」
「もう終わったんでしょう。それに、見てると気になるんで」
「余計なお世話だ」
「そうですか」
俺は椅子から立ち上がった。
「……一段というのは、どういう意味だ」
背中を向けかけたところで、権田が言った。
「ベルトの留め位置です。今のままだときつすぎます」
「見ただけでわかるのか」
「跡が残ってるんだから、誰でもわかります」
「おまえ以外は、誰も言わなかった」
「今の人はスマホは見ても腕時計なんかまず見ないですから」
権田はしばらく俺を見たあと、腕時計を外して机へ置いた。
「貸してください。すぐ終わります」
ベルトの留め位置を一つ外側へずらし、権田へ返した。
権田は時計を左手首へ戻し、手首を一度回した。
「……楽になったな」
「でしょうね。腕時計には、少しくらい遊びが必要なんですよ」
権田は何も言わなかった。
俺は進路相談室を出た。
廊下はやけに明るかった。どこかの教室から笑い声が聞こえ、部活へ向かう足音が階段の方へ流れていく。
それにしても、担任ガチャはやはり大外れだった。
この面談で得たものといえば、空欄はまだ書けるという、少しだけまともな言葉くらいだ。
あとは全部いらない。
社会とはそういう場所だ。
途中で投げ出した人間には、それ相応の理由がある。
きのう落ちた女もそうだ。
十年前に、この高校を辞めた時点で――。
「……え?」
階段を降りかけた足が止まった。権田の声が、少し遅れて頭の中へ戻ってくる。
そこへ、別の声が重なった。
――氏名も、経歴も、報道には出していない。
早川さんは、そう言っていた。
表に出ているのは、二十代の女性がバスターミナル前で消えたことだけ。教室でも、あの女がこの高校の関係者だなんて、誰も言っていなかった。
なのに権田は知っていた。
きのう落ちた人間が、十年前にこの高校を辞めたことを。
昔の教え子だったから。
学校へ連絡が来たから。
誰かから聞いたから。
どれも、あり得ないとは言い切れない。
それでも、偶然で片づけるには、権田の言葉は早川さんの残した言葉と噛み合いすぎていた。
――自然落下の被害者には、共通点がある。
城戸先輩。
きのう落ちた女。
この高校を辞めた人間。
そして末永は、まだ辞めていない。
でも、辞めさせられようとしている。
となれば――。
答えはひとつしかなかった。




