第10話 退学願が完成してしまう前に
答えを確かめる方法は、一つしか思いつかなかった。
俺は階段の踊り場で、制服のポケットへ手を入れた。指先に、早川絵里の名刺の角が触れる。ここで電話をする。それがたぶん、一番まともな選択だ。
けれど、なんて言えばいい?
嫌いな担任が、報道されていないことを知っていました。録音はありません。証拠は俺の記憶だけです。なお、担任への私怨ならふんだんにあります。
早川さんなら、取り合ってくれるだろう。
それでも、黒いスーツの大人たちが動くには、疑いだけでは足りない。
俺は名刺から手を離した。
さっき権田は、俺が署名した書類を黒いファイルへしまった。あれがただの面談記録なのか、ほかの生徒の指導記録もまとめているのかはわからない。
けれど、あの男が何を知っているのか確かめられるものがあるとすれば、あれしかない。
何もなければ、俺の考え過ぎで終わる。
何かあれば――。
俺は階段を引き返した。
進路相談室へ近づくと、半開きのドアから権田の声が聞こえた。もう一人、若い男の教師の声もする。
「一年の生徒同士でトラブルがありまして。片方の保護者が、今すぐ説明しろと学校へ来ているんです」
「それで、生徒本人から事情は聞いたのか」
「まだです。泣いて話にならなくて。保護者の方も、かなり強くて……いわゆるモンペというか」
「あのな」
権田の声が一段低くなった。
「どういう事情があれ、教師なら校内でモンペなんて言葉を使うな。言葉ひとつで、こちらの足元をすくわれる」
「……すみません」
「まず生徒を別々の部屋へ入れろ。泣いている方を一人にはするな。保護者への説明は、本人たちから事情を聞いてからだ。学年主任にも声をかけておけ」
「権田先生も来ていただけますか」
「最初だけ顔を出す。長くは無理だ。このあとにも指導が入っている」
「ありがとうございます」
「まったく。なんだって生徒だけじゃなく教師まで指導しなきゃならんのだ」
「すみません」
若い教師の声には、露骨なくらい安堵が混じっていた。
認めたくはないが、この学校で権田を頼りにしている人間も少なからずいるらしい。
二人分の足音が廊下を遠ざかる。
角を曲がり、聞こえなくなるまで待ってから、俺は進路相談室へ入った。
机の上には、さっきの黒いファイルが残されていた。
その横には赤ペン。権田はすぐ戻るつもりなのだろう。
表紙には、小さなラベルが貼られている。
“進路変更・中途退学 指導事例”。
犯行の証拠には見えない。教師が長年ため込んだ、仕事熱心さの記録にしか見えなかった。
俺はファイルを開いた。一番上には、さっき署名した面談実施確認票が挟まっている。
下まで写るように、強く書け。
あの妙に念入りな確認を思い出しながら、その下の仕切りをめくる。
末永歩 継続指導。
暴力行為。停学歴。集団適応に難あり。正義感は認められるが衝動性が強く、在籍継続には慎重な判断を要する。
権田らしい文章だった。褒めているように見せて、最後には校門の外へ追いやっていく。
記録の後ろに、一枚の用紙が挟まっていた。
退学願。
生徒氏名の欄には、すでに末永歩と印字されている。退学理由も途中まで入力されていた。空いているのは、日付と本人署名。
――オレさ、学校を辞めようと思ってんだよね。
末永は軽く笑っていた。でも、あれは願いじゃない。自分の席がないと思わされた人間が、校門の方を見ていただけだ。
次の仕切りには、“指導参考事例”と書かれていた。綴じられていたのは、三人分だけだった。
一人目の名前には、見覚えがなかった。
成績不振と度重なる校則違反を理由に自主退学。
ただ、書かれているのは問題点だけではなかった。
初対面の相手にも臆せず話せる。人との距離を縮めるのが早い。販売や営業の仕事に適性あり。
権田の字で、職場見学や就労体験を提案した記録も残されていた。けれど、その下には、別の評価が並んでいた。
指導に従わず。改善意思なし。
最後には退学願の写し。
本人の意思により退学。
意思確認済。
その横には、赤い字で「落籍」と二文字。
二人目。
城戸隼人。
指が止まった。
成績不振。校則違反。反抗的言動。校外での問題行動。
その下には、機械を扱う作業では高い集中力を発揮する、年下への面倒見がよい、と書かれていた。整備や製造に関わる進路を勧め、何度か外部の就労支援先にもつなごうとしたらしい。
犬に向けていた顔も、俺を助けてくれた日のことも、当然どこにも書かれていない。
それでも権田は、あの人の中にあるものをちゃんと見つけようとしていた。
けれど、その下には、別の評価が並んでいた。
指導に従わず。
改善意思なし。
最後には退学願の写し。
権田の字で、意思確認済、と書き添えられている。
その横には、赤い字で「落籍」と二文字。
三人目。
岡部沙樹。
十年前、家庭事情と無断欠席を理由に、この高校を自主退学している。
責任を持たせれば、任されたことは途中で投げ出さない。接客時の受け答えは丁寧。人と関わる仕事への適性あり。
権田は、勤務時間や環境の異なる複数の就職先を検討し、本人との面談を重ねていた。
しかしやはりその後は同じだった。
指導継続困難。
改善意思なし。
本人の意思により退学。
意思確認済。その横には、赤い字で「落籍」と二文字。
十年前に、この高校を辞めた女。
きのう、バスターミナル前から落ちたのは、この人だ。
早川さんは、氏名も経歴も公表していないと言った。
それなのに権田は、きのう落ちた女が、十年前に自分が指導した生徒だと知っていた。
それだけじゃない。
末永を指導するために選び出した、たった三件の参考事例。その中に、自然落下の被害者が二人とも入っている。
偶然で片づけるには、選び方が出来すぎていた。
城戸先輩と岡部沙樹。
二人はこの高校を退学し、権田から指導を受けている。
そして、もう一人。
最初に読んだ、名前も知らない退学者。その人も同じだとしたら。
三人とも、権田が落とした人間なんじゃないか。
――自然落下の被害者には、共通点がある。
早川さんの言葉が、今度ははっきり形を持った。
権田が自然落下事件に関わっている。
その疑いは、もう無視できる段階を越えていた。
問題は、どうやって人を落としているかだ。
退学したという事実が必要なのか。
本人の意思なのか。
署名なのか。
それとも、退学願に書かれた赤い二文字――「落籍」が最後の引き金なのか。
そこまではわからない。
ただ、三件の記録で共通しているのは、本人の意思を確認し、退学願へ署名を残していること。そして、その書類には「落籍」の二文字がある。
末永の退学願に足りないのは、日付と本人の署名だけだった。
机の端に、今日の予定表が挟まっている。
十六時五十分。末永歩、生徒指導室。
時計を見る。
あと数分しかなかった。
せめて城戸先輩と岡部沙樹の書類だけでも撮っておく。
そう思ってスマホを取り出しかけた時、廊下から靴音がした。
まずい――。
俺は岡部の書類を戻し、ファイルを閉じた。けれど、仕切りの一枚が数ミリ外へ出ている。直そうとした瞬間、曇りガラスの向こうに人影が差した。
ドアへは間に合わない。
俺は壁際の掃除用具入れを開け、体を滑り込ませた。洗剤と湿った布の匂い。扉を閉め切れば音が出る。わずかな隙間を残し、口元を手で押さえる。
ドアが開いた。
権田が入ってくる。
隙間から見えるのは、机と、その前に立つ権田の腰から下だけだった。
足音が止まる。
紙が擦れる音がした。
ファイルを開いたらしい。
沈黙が長い。
数ミリの乱れに気づいた。
そう思った瞬間、胸の奥で心臓が一度だけ強く鳴った。薄い鉄板一枚くらい、簡単に抜けてしまいそうな音だった。
革靴がゆっくり向きを変えた。
一歩。
こっちへ近づく。
もう一歩。
「権田先生」
廊下から別の教師の声がした。
「末永君、生徒指導室で待っています」
権田の足が止まった。
「今行く」
返事をしたあとも、すぐには動かなかった。
革靴のつま先は、まだこちらを向いている。
見えているはずはない。
それでも、薄い扉一枚を挟んで目を合わせているような寒気が背中を走った。
「……まさかな」
小さな声がした。
革靴が机へ戻る。
紙の角を机へ当てる音。何かをまとめる音。
それから足音がドアへ向かった。
ドアが閉まった。
足音が完全に遠ざかるまで、俺は動けなかった。
掃除用具入れから出ると、肺の中の空気をまとめて吐いた。
机を見る。
黒いファイルも、赤ペンもなくなっていた。
権田が自然落下を起こしている。
能力の条件まではわからない。
でも今、あのファイルと赤ペンを持って、末永の待つ生徒指導室へ向かった。
早川さんへ連絡するべきだ。
ポケットの中には名刺がある。
けれど、生徒指導室は階段を上がってすぐだった。
今から番号を入力し、事情を説明している間にも、末永は名前を書かされるかもしれない。
まず、その手を止める。
連絡はその後でもできる。
確信が外れていれば、俺が怒られるだけで済む。
当たっていれば、退学願が完成してからでは遅いかもしれない。
なら、先に行く。
俺は進路相談室を飛び出した。
末永の退学願が、完成してしまう前に。




