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第11話 そこはもう、観客席じゃない


 階段を一段飛ばしで駆け上がり、生徒指導室の前へ着いた。息が切れている。右手の疼きも、さっきより強い。けれど立ち止まっている時間はなかった。

 

 ドアの向こうから、権田の声が聞こえた。

「これは処分ではない。おまえ自身のために、環境を変える選択肢を示しているだけだ」


「……はい」

 末永の声だった。いつもの軽さがない。


「今ならまだ、自分で決めたことにできる。二度目の問題を起こし、学校から切られてからでは遅い。自分から身を引くのも立派な判断だ」

 

 コツ。コツ。コツ。

 赤ペンが机を叩いている。

 

 俺はドアを開けた。そして叫んだ。

「末永! その紙に名前を書くな!」

 

 二人がこちらを見た。

 

 末永は机の前に座っていた。制服の袖口から、色褪せたミサンガが覗いている。

 その前には退学願。氏名欄には末永歩と印字され、退学理由も途中まで埋められていた。空いているのは日付と本人署名だけだ。

 

 横には黒のボールペン。権田の手元には、さっき進路相談室から持ち出した黒いファイルがある。

 

 間に合った。まだ、名前は書かれていない。


「久世。ノックくらい覚えたらどうだ」

「ノックしてる間に、あんたが何するかわからないんで」


「何をしに来た」

「その空欄を、埋めさせないために」

 

 末永が眉を寄せた。

「なんだよ、急に」


「その退学願、書いちゃだめだ」

「なんでだよ?」


「権田が前に退学させた奴らに、おかしなことが起きてる。まだ全部はわかってない。でも、署名が関係してる可能性がある」

 

 末永の表情が変わった。

「……何だよ、それ」


「だから、少なくともその空欄だけは埋めるな」

 末永の視線が権田へ向く。


「久世」権田の声が低くなった。「おまえ……進路相談室へ戻ったな」

「はい」


「私のこのファイルを勝手に見た」

「見ました」


「写真は」

「撮ってません」

 

 権田の目から、わずかに力が抜けた。「なら、証拠はない」

「でもこの目で見た」


「おまえがそう言い張っているだけだ。校内の機密資料を盗み見て、教師を犯罪者扱いするとはな」赤ペンを握る指に力が入る。「久世。おまえも落ちるところまで落ちたな」

 

 その瞬間、権田の右手が腕時計へ伸びた。

 ベルトには、俺が一段緩めた時のわずかな遊びが残っている。

 権田は、ずれてもいない文字盤を親指で押し、手首の骨の内側へ戻した。


「今、落ちるって言いましたね」

 

 権田の目が止まった。「……言葉のあやだ」

「でしょうね。普通の教師が言えば、ただの説教です」

 

 岡部沙樹のことを口にした時も、この男は「落ちた」と言った。

 その直後にも、同じように時計を押し戻す動きをしていた。

 ベルトは緩めたままなのに、文字盤の位置だけは何度でも戻す。

 時計も、生徒も同じなのだ。

 

 ずれていないものまで、自分が正しいと決めた位置へ戻そうとする。

 それでも戻らなければ、落とす。 

 

 間違いない。やっぱり、犯人はこいつだ。


「久世。そういうのを揚げ足取りと言うんだ」


「そうですか」

「退学者の記録を学校が保管し、指導の参考にすることの何がおかしい」


「三人しかいない参考事例のうち、俺が被害者だと確認できてるだけで二人いる」

「くだらん憶測だ。城戸も岡部も学校生活に問題を抱え、自主退学した。末永と事情が似ていただけだ」


 権田の言葉は、まだ教師の形をしていた。

 学校が記録を残す。過去の事例を参考にする。本人の意思を署名で確認する。

 

 一つずつなら、どれもおかしくない。

 正しいものを積み上げ、その先に人ひとりが消える穴を隠している。


「だったら、今日は書かせないでください」

「理由がない」


「俺の考えすぎなら、明日になっても末永はここにいる。退学したい気持ちも変わらない。改めて考えればいい」

「問題を先送りにするだけだ」


「今日でなきゃ困るのは、誰なんですか」

「書くかどうかを決めるのは末永だ」

 

 権田は黒いボールペンを末永の指先へ滑らせた。

「強制はしない。自分の人生だ。自分で考えて決めなさい」


 末永はペンを見つめた。

「……もういいんだよ、久世」


「よくない」

「オレが辞めたいって言ったんだ。この前、おまえにも話しただろ」


「考えてるとは聞いた。今日決めるとは聞いてない」


「今日止めて、それでどうすんだよ」末永が顔を上げた。「明日から、おまえがずっとオレの隣にいてくれんのか? オレがまた誰かを殴りそうになったら、毎回止めてくれんのかよ?」

 

 言葉が詰まった。そんな約束はできない。俺たちは放課後に遊んだこともなければ、連絡先さえ知らない。


「おまえは今日ここで止めれば、借りを返した気になれるかもしれねえ。でも、オレは明日もこの学校に来なきゃならないんだよ」


「末永」

「新しいクラスでも浮いてる。前にも言っただろ、いじめっぽいのもまだある。次に手が出たら、今度こそ退学だ。だったら、自分で辞めた方がいい」

 

 正しいことを言っているように聞こえた。たぶん末永は、何度も自分へそう言い聞かせてきたんだろう。


「知らないよ」

「……は?」


「明日からどうするかなんて、俺にはわからない。おまえを毎回止めるとも言えない」

「なんだよ、それ」


「でも、今ここで取り返しのつかないことが起きるかもしれないのに、見なかったことにはできない」

 

 末永の目がわずかに開いた。


「おまえが言ったんだろ。視界に入ったものを、見なかったことにはできないって」

 片方の羽が傷ついた蝶を、葉の上へ乗せていた末永。

 去年、俺の母親を笑った連中の机を蹴った末永。

「面倒くさい癖をうつすなよ」


「……それは悪かったな」


「だから今日は書くな。明日のことは、明日また考えろ」

 

 末永の指が、ペンから離れた。

 けれど、机の下へは下がらなかった。

 紙とペンの間で、行き場を失ったまま止まっている。


「一時の感情で判断を変えるな」権田の声は静かだった。「末永。久世に流されるな。おまえは自分で辞めると決めたはずだ」 

 

 末永の指が、導かれるようにもう一度ボールペンへ近づいていく。

 

 俺はほとんど無意識に机に駆け寄り、そして退学願へ手を伸ばした。その時だった。


「久世君。勝負のテーブルから離れた場所で、眺めているんじゃなかったの?」

 

 背後から、聞き覚えのある声がした。

 振り向く。

 開いたドアの前に、早川絵里が立っていた。

 

 退学願へ伸びた俺の手を見て、かすかに笑う。

「そこ、観客席じゃないわよ」

 

 返す言葉がなかった。

 俺はずっと、テーブルの外にいるつもりだった。

 

 でも、城戸先輩が落ちたあの朝から。

 末永が学校を辞めると言ったあの瞬間から。

 

 俺の席は、とっくにこちら側へ移されていたらしい。

 

 早川さんの半歩後ろには、見知らぬ男が立っていた。濃い色のスーツの上からでも、肩まわりの硬さがわかる。学校にいる大人の立ち方ではない。

 

 男は上着の内側から黒い手帳を取り出し、開いて見せた。

 警察手帳だった。ドラマで見るより地味で、だからこそ冗談では済まないものに見えた。


三上(みかみ)です」男はそれだけ名乗った。


 早川さんはすぐに権田へ向き直った。

「岡部沙樹さんの身元が確認できました。十年前まで、この高校に在籍していた生徒です」

 

 権田の目がわずかに細くなる。「それで?」


「他の自然落下の被害者についても経歴を調べました」

 早川さんは一歩、生徒指導室へ入った。

「全員、この高校の退学者でした」

 

 権田は何も言わなかった。


「退学した時期はばらばらです。去年辞めた人もいれば、十年前に辞めた人もいる。同じ時期の生徒同士という線では説明できない。だから、学校に長く関わっている人間を調べる必要があると考えました。そう、教師です」

 

 三上さんが警察手帳を閉じる。


「校長先生に事情を説明して、校務システムを確認させてもらいました」

 早川さんは続けた。

「まず、城戸隼人さん。去年この高校を退学した彼の指導記録は、自然落下が起きる前に、あなたのIDで閲覧されていました」


「私は生徒指導を担当している」権田は即座に答えた。「過去に指導した生徒の記録を確認することの、何がおかしいんですか」


「ええ。それだけなら、偶然で済ませることもできたかもしれません」

 早川さんはあっさり認めた。

「でも、岡部沙樹さんは違う」

 

 一拍、間が空いた。

「彼女がこの高校を退学したのは、十年前です」

 

 権田の赤ペンが止まった。

「その十年前の指導記録を、あなたは今になって閲覧している。そして、その翌日に岡部さんは落下した」

 

 権田は答えない。


「さらに確認すると、他の被害者の記録にも、同じようにあなたのIDが残っていました」

 

 早川さんの視線が、机の上へ落ちた。

 末永の退学願。

 まだ埋まっていない本人署名欄。


「そして今日、あなたは末永歩君の記録を開き、放課後、この生徒指導室へ呼び出している」

 

 末永が、ゆっくり退学願へ目を落とした。


「過去の被害者と同じ流れが、今度は末永君で始まっている。そう考えたから、私たちはここへ急ぎました」

 

 俺は黒いファイルを見て、ここへ走った。

 早川さんたちは、消えた人間の経歴と学校の記録をたどって、ここへ来た。

 

 見てきたものは違う。

 それでも、たどり着いたのは同じ部屋だった。

 

 三上さんが後ろ手でドアを閉める。

 廊下の音が遠ざかった。


「権田正則先生」

 早川さんは言った。

「次に落とすつもりだったのは、末永歩君ですね」

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