第7話 0.00016%の高校生
何の変化も望んでいない俺の思いとは裏腹に、世界はもう一歩、おかしな方向へ歩みを進めた。
その日の昼休み、また人が落ちた。
今度の現場は、駅前のバスターミナルだった。
俺は自分の席で購買のツナマヨおにぎりを食べながら、周囲の会話に耳を傾けていた。教室のあちこちでスマホの画面が光り、誰かが拾ってきた情報を、別の誰かが少しずつ形を変えて広めている。
「落ちたの、二十代くらいの女の人だって」
「動画見た?」
「さっきまであったけど、もう消されてる。警察が消したんじゃね?」
「落ちる直前、バスの中で杖をついたおじいさんに怒鳴ってたらしいよ。早く降りろって」
「ベビーカー押してる人にも舌打ちしてたって」
「うわ、最悪」
「いるよね。立場の弱い人にだけ強く出る人」
「そんなことしてたから、バチが当たったんじゃない?」
そこで誰かが笑った。
名前も顔も知らない女に対する裁判は、昼休みの教室で勝手に始まり、数分で終わった。
判決は、落ちても仕方のない人間。
噂が全部本当なのかはわからない。怒鳴ったのかもしれないし、怒鳴っていないのかもしれない。仮に本当でも、見知らぬ高校生たちから地面の底へ落ちて当然だと決めつけられる筋合いはないはずだった。
立場の弱い人にだけ強く出る。
要するに、自分より弱いものを選んで傷つけるような奴。
そこで、今朝の末永が頭に浮かんだ。
片方の羽を傷めた蝶を放っておけなかった男。小学生が相手でも、間違っていると思えば黙っていられない男。
あいつなら、そういう人間を嫌うだろう。
もし、末永に人を落とす力があったなら――。
そこまで考えて、おにぎりを持った手を止めた。
馬鹿馬鹿しい。
末永と駅前の女に接点があるとは思えない。能力がある証拠もない。今朝会った同級生を、弱いものを放っておけないというだけで犯人候補にするなら、噂だけで見知らぬ女を裁いている連中と大差ない。
俺は残っていたおにぎりを口へ押し込んだ。
海苔が、妙に喉へ張りついた。
*
そして世界がまた一歩おかしな方へ進んだとなると、俺の逃げ道は一歩ぶん狭くなる。案の定、放課後の校門前には黒スーツの国家公務員がいた。早川絵里だ。新しい落下事件の噂を聞いた時点で、嫌な予感はしていた。ああ、これは来るな、と。
早川さんと目が合った。
俺はすぐに方向を変えた。
「ちょっと、久世君。どこへ行くの」
「友達と約束があるので」
「君に友達なんていないでしょう」
「失礼な」
早川さんは小走りで追いつき、俺の隣へ並んだ。ヒールで走ったわりに、息一つ乱れていない。
「なんでいるんですか」
「君に会いに来たに決まってるじゃない」
校門を出ていく生徒たちが、ちらちらこちらを見ていた。
「……歳を考えてくださいよ」
「失礼ね」
私はまだ二十六よ、とかなんとか聞こえた。アラサーにはまだ早いわ、とも。よっぽど効いたらしい。そんなつもりはなかったのに。ちょっとだけ罪悪感を覚えた。
「少しだけ時間をちょうだい」
「断ったら?」
「明日また来る」
「ストーカーの発想ですよ」
「けっこうけっこう。次は教室の前で待ち伏せしたりして」
早川さんは笑った。めんどくせぇ、と俺は思った。それからふと、彼女の腕時計へ目をやった。
小ぶりな白い文字盤に、細身の銀色のベルト。長さはちょうどよく、時計は手首の骨にかからない位置へきれいに収まっている。ガラスにもベルトにも、目立つ汚れはなかった。
腕時計には、その人間の性格が出る。
少なくともこの人は、物を雑に扱う人間ではない。時計にも自分にも、必要以上の無理をさせない。たぶん、根は真っ当な人なのだろう。
「なんなんですか。今日はやけにご機嫌ですね」
「そりゃそうよ。最悪の日に、希望を見つけたんだから」
「希望?」
「君も知っていると思うけど、今日、新たに自然落下事件の被害者が出た。だから最悪の日」
早川さんの表情から、少しだけ軽さが消えた。
「でも同時に、君について新しくわかったことがある」
「なんですか」
「これを見て」
早川さんは肩にかけていた鞄から、薄いタブレット端末を取り出した。
画面に映っていたのは、見覚えのある歩道だった。
信号。車道。人だかり。そして、白い犬。
映像の中の犬が、飼い主の手を離れて車道へ飛び出しかける。
その直後、画面の端から俺が走ってきた。
犬のリードを掴み、力任せに歩道へ引き戻す。そのすぐ横を、黒い車が通り過ぎた。
画面の中の俺は、見ているこっちが恥ずかしくなるくらい必死な顔をしていた。
「……どこから手に入れたんですか、これ」
「現場周辺の防犯カメラ。警察が確認した映像を、こちらでも共有してもらったの」
「悪いことはできない時代ですね」
早川さんは、俺がリードを掴んだ瞬間で映像を止めた。
「これで、未確認だった最後の項目が埋まった」
「最後の項目?」
「他者保護反応。前に見せた適性評価にあったでしょう」
忘れたいが、覚えている。
絶望深度S+。環境負荷S。孤立傾向A+。
人間をゲームのステータスみたいに並べた、ろくでもない成績表だ。
「あの時点では未確認だった。でも君は危険を承知で犬を助けた。考えるより先に体が動いている」
「目の前で犬が轢かれそうだったからです」
「ええ」
「それだけですよ」
「それができる人間かどうかを、私たちは知りたかったの」
早川さんの口元が、抑えきれないように少し緩んだ。
「私の中で、君の協力者としての総合適性はS+どころかS++よ」
「浮かれすぎですって」
「うちの分析官が言うには、仮に日本全国の高校生を調べても、総合適性がS+になるのはせいぜい四人か五人。そのうちの一人が、この街にいたの。一連の事件が起きている、この街にね」
早川さんは少し得意そうに続けた。
「全国の高校生を母数にすれば、約〇・〇〇〇一六%ですって」
そして、止めた映像へ目を落とした。
「しかも、唯一確認できていなかった項目まで埋まった。少しくらい喜ばせて」
犬を助けたことまで勝手に分析され、適性だの反応だのと名前をつけられるのはやはり良い気はしなかった。
ただ、早川さんの声から、昨日のような勧誘の軽さは消えていた。
「絶望が深いだけなら、協力者には選べない。自分の痛みを誰かにぶつける人なのか、それでも目の前の誰かを守れる人なのか。そこは、どうしても確かめる必要があったの」
「それで?」
俺はタブレットを指した。
「犬を助けたから、今度は世界も助けろって話ですか」
「ずいぶん乱暴に要約したわね」
「違うんですか?」
早川さんは少しだけ考える顔をした。
「いいえ」
そして、あっさりうなずいた。
「方向性は合ってる」
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