第6話 席ねえじゃん、オレら
朝は来た。
世界は終わってなんかいなかった。
きのう俺は、“もうじきこの世界は朝を失う”という予言を聞かされ、「明日の朝が来るといいですね」なんていう皮肉を返した。
少なくとも今のところ、東の空はきちんと明るくなっている。太陽は昇り、信号は赤から青に変わり、通勤中のサラリーマンは眠そうな顔で駅へ向かっている。
世界の終わりが近い割には、いたって普通の朝だった。
俺は学校へ向かって歩きながら、名刺を取り出した。
内閣府危機管理局。
異常事案対策室。
特命現地対応……。
だめだ。朝から読むには肩書きが長すぎる。本当に眠くなる。それでも俺は、この名刺を捨てられなかった。
そして右手の異変は、一晩眠っても消えていなかった。歩くたび、骨の内側を強い痛みが走る。
「うるさい」
右手へ向かって小さくつぶやいた、その時だった。
「久世、おまえ、ついに右手と口論できるレベルまで孤独を極めたのか!?」
背後から伸びてきた腕が、俺の首に巻きついた。
「ぐえ」
「おはようさん! 相変わらず朝から暗い顔してんな。なんだ? 世界でも終わるのかよ」
「首を絞めながら縁起でもないことを言うな」
本当に終わるかもしれないんだよ、とは言えなかった。言ったところで、首より先に頭を心配される。
頬の横で、色の褪せた紐が揺れていた。
赤と青のミサンガ。
腕の持ち主が、去年からずっと手首に巻いているものだった。端はほつれ、ところどころ糸が細くなっている。
「それ、去年よりボロボロになってないか」
「いいんだよ。このままで」
「ほつれてるところ、結び直せばまだ持つだろ」
「直せねえよ。そういうもんじゃねえから」
「紐だろ」
「ただの紐じゃねえ。ミサンガだ」
「小学生みたいな理屈だな」
「ほんと身も蓋もねえな、おまえ」
俺が首に回った腕を外すと、末永歩はけらけら笑った。
明るい髪。少し着崩した制服。人懐っこい表情。
黙っていれば女子に人気が出そうな見た目をしているし、実際、一年の最初の頃は人気があった。あいにく、黙っていられない性分のせいで、その後すべてを台無しにした男でもある。
「久しぶりだよな。違うクラスになってから、全然会わねえし」
「会う必要もないだろ」
「冷てえなあ。去年あんなに体育でペアを組んだ仲なのに」
「あれは余りもの同士の自動マッチングだ」
「オレたちは誰にも選ばれなかったんじゃない。誰も選ばなかっただけだ」
「そういうのを負け惜しみって言うんだよ」
「スポーツ大会も組んだだろ。バドミントン」
「試合開始一分で仲間割れしかけたけどな」
「久世がシャトルをオレの後頭部に当てたからだろ」
「あれは……本当にすまんかった」
俺は素直に謝った。
末永はまた笑った。
俺もつられて笑いそうになった。
友達というほどではない。それでも二人一組を作れと言われると、俺たちはどちらが言い出すでもなくペアになっていた。
それに、俺は末永に借りがあった。
去年、クラスで俺の母親のことを笑い話にされた時、末永だけが笑わなかった。それどころか、笑った奴らの机を蹴り、「なんにも面白くねえよ」と言って空気を変えた。
それ以来、教室で俺の母親の話題が出ることは一切なくなった。あれがなければ、今も様々な問題を抱えながらもこうして高校に通えているかはわからない。
「で、なんだよ、その名刺?」
俺ははっとした。
早川さんから、きのうの話は口外しないよう釘を刺されている。
慌てて名刺を内ポケットへ戻した。その拍子に、右手がまた疼いた。思わず指を握る。
「久世。さっきから、やけに右手を気にしてるよな」
「なんでもない」
「ふむふむ……」
末永は顎へ手を当て、わざとらしく考え込んだ。
「名探偵末永歩、謎が解けた。思春期男子高校生の右手の疼きなんて、原因は一つしか――」
「朝っぱらから最低の推理をするな」
「違うのか?」
「断じて違う」
「即答されると逆に怪しい」
「おまえな……」
いつもなら「消えろ」くらいは返していたと思う。でも、その言葉は口に出せなかった。
なぜならきのう城戸先輩が消えた歩道に差しかかっていたからだ。
なんの変哲もないアスファルト。穴もない。亀裂もない。
ただ、電柱の根元に、誰かが置いた花束があった。まだ新しい花びらが、朝露に濡れている。
「なあ、久世」
末永の声から、ふざけた調子が消えた。
「ここだろ。きのう、人が消えたの」
「……らしいな」
「消えたの、うちの高校を去年退学した人だっていうじゃん」
「……らしいな」
「なんだよ。さっきから、らしいならしいなって」
末永は俺の顔を横から覗き込んだ。
「ははん。名探偵末永歩、謎が解けた。さてはおまえ、何か知ってるだろ」
「知らないよ、何も」
しつこく追及されたら厄介だったが、末永の関心はすぐ別のところへ移った。
視線を追う。
通学路の端で、男子小学生が三人しゃがみ込んでいた。手にした細い棒で、地面に落ちている何かをつついている。
羽の片方が傷んだ蝶だった。
うまく飛べないらしく、逃げようとしてはアスファルトへ転がっている。
末永は舌打ちした。手首のミサンガを、親指で一度だけなぞる。
「おい、クソガキども」
「やめとけよ」
「無理」
短く答え、末永は小学生たちの方へ歩いていった。
「何してんだ、おまえら」
「別に」
「別に、じゃねえだろ。三人で囲んで、武器まで持って。ダサすぎんだろ」
「たかが虫じゃん」
「じゃあ、おまえも『たかが小学生』ってことで、何されても文句ねえのかよ」
小学生たちは気まずそうに目を逸らした。
一人が棒を捨てると、残りの二人もそれに続いた。三人はランドセルを揺らしながら、逃げるように歩いていく。
「次やったら、その棒、ケツに突っ込むからな」
末永は地面に落ちていた大きめの葉を拾った。
蝶を指で直接つかまないよう、葉の上へ慎重に乗せる。そのまま植え込みの奥まで運び、朝日が当たる場所へそっと置いた。
戻ってきた末永に、俺はため息をついた。
「おまえさ、そういうところだぞ」
「何が」
「なんでいちいち首を突っ込むんだよ。放っておけばいいのに」
一年の時もそうだった。
クラスで、足に持病のある生徒を笑いものにする空気ができた。本人は嫌がっていた。でも周りは冗談だと言った。
末永は止めようとした。
言葉で止まらなかった。
だから、手が出た。
結果として、笑っていた側は被害者になり、末永は暴力行為で停学になった。
それから末永は浮いた。
誰かを助けた人間ではなく、すぐにキレて手を出す危ない奴として扱われるようになった。
「放っておく、か。それができたらやってる」
末永は植え込みの方を見た。
「オレだって見たくねえよ。見たくねえけど、視界に入ったもんを、見なかったことにはできねえんだよ」
「面倒くさい性格だな」
「久世が無関心すぎるんだ。何事にも」
俺自身、その面倒くさい性格に助けられたことがある手前、あまり強くは言えない。
「もったいないな」と俺は言った。「おまえ、もう少しうまく立ち回れば、いくらだってキラキラした青春を送れたのに」
「キラキラした青春、ねえ」
末永は目を細め、昇り始めた太陽を見た。
「まぶしすぎて、オレには目潰しだわ」
いつもの軽い笑い方だった。けれど、その笑いはどこか薄かった。
「放課後にファストフード店へ寄って、部活で汗流して、文化祭で写真撮って、好きな子に告って、模試の結果で一喜一憂して。そういうやつだろ」
「たぶんな」
「いいよな。最初から自分の席がある奴らは」
「席?」
「席ねえじゃん、オレら」
末永は前を向いたまま言った。
「教室の真ん中で笑ってる連中の後ろで、壁にもたれて、いつ帰るかだけ考えてる。オレもおまえも、たぶん立ち見組だろ」
「勝手に一緒にするな」
「違うのかよ」
否定できなかった。俺もずっと、テーブルの外から眺めている側だった。
「まぁ、立ち見も悪くねえけどな」
末永は軽く笑った。
「途中で出ていっても、誰にも迷惑かからねえし」
「……どういう意味だよ」
「オレさ、学校を辞めようと思ってんだよね」
俺は足を止めた。
「は?」
「新しいクラスでも浮いてんだよ。『すぐキレるヤバい奴』って認定だけは、学年が変わっても持ち越しらしい。しかも、またあるんだわ。いじめっぽいやつ」
「見ないようにすることは……」
「できないっつの。仮に目を閉じても、耳が拾いやがるんだよ。馬鹿みてえな声を」
末永は自分の右拳へ目を落とした。
「このままだと、いつかまた手が出る。二度目の停学になれば、今度こそ退学だ。だったら、その前に自分から辞めるのも選択肢じゃねえかって言われた」
「言われた? 誰に?」
「権田」
耳の奥で、赤ペンの音が鳴った。
コツ。コツ。コツ。
「あの野郎」
無意識に、俺は右手を握っていた。
「担任でもないくせに、そんなこと言ってきたのか」
「生徒指導担当ではあるからな。『おまえは学校という組織に向いていない』『また問題を起こす前に環境を変えることも考えろ』だってさ」
「それで自主退学しろって?」
「露骨に辞めろとは言ってねえよ。言ったら大変なことになる。あいつ、そういうところだけは抜け目ねえから」
末永は笑った。けれど、今度の笑いには、いつもの明るさがほとんど残っていなかった。
「ムカつくけど、一理あるんだよな。今のまま高校にいたら、また誰かを傷つけるかもしれない。だから、一回ここから離れた方がいいのかなって思ってる」
末永は少し黙った。
「まあ、辞めりゃ全部解決するとも思ってねえけどな。どこへ行ったって似たような奴はいるだろ。そいつら全部にいちいちキレてたら、先に消えるのはオレの方だ」
返す言葉がなかった。
俺たちは、また学校へ向かって歩き始めた。
辞めるなよ、と言えばよかったのかもしれない。
でも、その言葉は出てこなかった。
なあ、早川さん。
きのう、あんたは俺に、世界が終わると言った。
けれど俺は今、恩のある同級生ひとり、引き止める言葉も持っていない。
こんな俺に、世界なんて救えるわけがない。




