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第2話 人間が、何もない地面から落ちた


 家を出ると、四月の朝の空は、腹が立つくらい青かった。

 

 この街は空が広い。

 

 高い建物がほとんどなく、視界を遮るものも少ない。どこへでも行けそうに見える。

 見えるだけだ。

 実際に行ける場所は、それほど多くない。

 

 駅前のアーケードは、何年も前から半分以上のシャッターが下りたままだ。地域で唯一だった百貨店も、おととし閉店した。通学路の途中には、昔はゲームも本も売っていて、ボウリングやカラオケまで入っていた大きな店がある。子供の頃は、そこへ行けば一日くらい簡単に潰せた。今は入口に、色あせた「売物件」の看板が立っている。

 

 この街は、何もない田舎というほど小さくはない。映画館も大学もある。全国チェーンのカフェや回転寿司屋だって、一通り揃っている。

 

 普通に学校を出て、普通に働いて、休日には車で買い物へ行く。そういう人生を送るには、たぶん困らない。

 

 でも、少しだけ普通から外れたことをしようとすると、途端に行き止まりになる。

 

 以前、時計を直す仕事について調べたことがある。

 仕事にしたいと誰かへ話すよりも前に、どうすればなれるのかを検索した。

 この街には、それを学べる学校がなかった。近くの大きな街にもなかった。

 検索結果に出てきたのは、この街から遠く離れた場所ばかりだった。

 

 もし東京に生まれていれば、少し変わった夢で済んだのかもしれない。

 ここに生まれた俺には、夢にする前から、この街を出る覚悟が必要だった。

 

 もちろん、遠くへ行けばいいだけだと言う人間もいるだろう。

 行きたいなら行け。

 やりたいならやれ。

 努力すればどうにかなる。

 

 そういう正論は、だいたい移動するための金も、相談できる親も、帰る場所も用意されている人間が口にする。

 何かを始める前から、余計な条件がいくつもついてくる。

 

 それが、この街で生まれたということだった。

 

 空はこんなに広いのに、選べる未来は少ない。

 ついさっき「親ガチャ大外れ」と考えたばかりなのに、そんなことを思えば、どうしても次の言葉が浮かんでくる。


 生まれガチャ、大外れ。

 

 ……いや。

 さすがに、そこまで言うのはこの街に悪いか。

 生まれガチャ、外れ。

 

 交差点の信号は赤だった。

 俺はポケットからスマホを取り出し、時刻を確認した。遅刻するほどではない。急いで学校へ行ったところで、授業が面白くなるわけでもなかった。

 

 画面を消した時、近くのゴミ集積所から話し声が聞こえてきた。

 ゴミ袋を持った二人のおばさんが、声をひそめることもなく話している。


「しかし最近、どうなってるんだろうねえ」

「本当よね。人が急に燃えたり、公園に遠足で来ていた子供たちが、みんな眠ったまま起きなくなったり」

「あの公園、まだ立ち入り禁止なんでしょう?」

「そうみたい。それに、どっちもこの街で起きてるっていうじゃない」


「東京からテレビの人も来てるらしいわよ」

「今いちばん騒がれてるのは、ほら。人が落ちるってやつ」

「ああ、自然落下事件?」

「そうそう。普通に立ってた人が、そのまま下へ落ちるんだって」


「下って、地面に?」

「地面の下によ。穴なんてないのに、すとんって消えちゃうらしいわ」

「嫌ねえ。そんなの、足元を信用できなくなるじゃない」

「気をつけないとね」

「気をつけるって言っても、どうやって気をつけるのよ」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 冗談なのか、本気で怖がっているのか、よくわからない笑い方だった。

 

 この街では最近、不可解な事件の噂が絶えなかった。

 人体がひとりでに燃える。

 大勢の子供が同時に眠ったまま目を覚まさなくなる。

 何もない地面から人間が落ちそのまま消える。

 

 朝から聞くには、ずいぶん出来の悪い怪談だ。

 おおかた見間違いか、原因のわからない事故を、オカルト好きの誰かが大げさに広めただけだろう。動画だって、今はどうにでも作れる。この街だけで起きているというのも、いかにも噂話らしい。

 

 だいたい、俺はそれどころではなかった。

 三者面談に来るはずの母親は、男と南の島へ行くと言って消えた。なのに今日、担任から何か言われるのは、親ではなく俺だ。

 

 俺に言わせれば、そっちの方がよっぽど不可解だった。

 

 信号が青に変わった。

 スマホをポケットへ戻し、横断歩道を渡る。

 向こう側の歩道に、見覚えのある金色の頭が見えた。

 

 上下とも、だぶついた灰色のスウェット。周囲の人間すべてに喧嘩を売っているような、少し肩を揺らす歩き方。

 

 去年、うちの高校を辞めた城戸きど隼人はやと先輩だった。

 

 授業をサボる。

 教師に食ってかかる。

 口癖は「ぶっとばすぞ」。

 不良を描いてくださいと言われた人間が、何も考えず最初に描きそうな人だった。

 

 学校中から煙たがられていたけれど、俺にはちょっとした借りがある。

 入学したばかりの頃、購買でパンを買う列に並んでいたら、上級生に横入りされたことがあった。俺が何も言えずにいると、近くにいた城戸先輩が、その生徒の肩をつかんで後ろへ引き戻した。

「ちゃんと並べよ。ぶっとばすぞ」

 たったそれだけで、相手は舌打ちしながら最後尾へ向かった。

 

 恩人と呼ぶには大げさかもしれない。

 正義感から助けてくれたというより、たまたま虫の居所が悪かっただけにも見えた。

 それでも俺は、その時のことを覚えていた。

 

 城戸先輩は、白い小型犬を連れて歩いていた。

 絵に描いたような不良と、ぬいぐるみのような犬。

 ずいぶん不釣り合いな組み合わせだった。

 

 犬の方は、そんなことを気にしていない。短い足で忙しそうに歩き、何度も飼い主の顔を見上げている。そのたび城戸先輩は、面倒そうにしながら歩調を緩めていた。

 

 学校中から疎まれていた人間が、犬にはきちんと懐かれている。

 人間の評価なんて、案外適当なものだ。

 

 声をかけようか迷った。

 購買での一件の礼を言える機会は、たぶんもうあまりない。

 でも、向こうは俺のことなんて覚えていないかもしれない。いきなり声をかけたら、ぶっとばすぞと言われる可能性もある。

 

 俺がそんなくだらない計算をしながら、喉の調子を整えた時だった。

 

 城戸先輩の体が、落ちた。

 

 転んだわけではない。

 足を滑らせたわけでもない。

 先輩の両足が、足首の辺りからアスファルトの下へ沈んでいた。


「……え?」

 間の抜けた声が出た。

 

 歩道には穴も亀裂もなかった。マンホールの蓋の上でもない。さっきまで何十人もの人間が普通に踏んでいた、何の変哲もないアスファルトだ。

 

 なのに、城戸先輩の膝が沈み、腰が沈んだ。

 まるで世界が、先輩の体だけを下へ通すことに決めたみたいだった。

 

 先輩は、自分の足元を見下ろしていた。驚いているというより、理解できていない顔だった。

 それから、顔を上げた。

 目が合った。

 たまたま俺が一番近くにいただけかもしれない。

 それでも、先輩はたしかに俺を見た。

「おい――」

 何かを言いかけた。

 

 その間にも、体は沈み続けていた。

 胸が消えた。

 肩が消えた。

 伸ばしかけた腕も、指先まで地面の下へ吸い込まれていく。

 最後に金色の髪が、春の風に揺れた。

 次の瞬間、城戸先輩はいなくなった。

 そこには何も残っていなかった。

 血も、服の切れ端も、地面に開いた穴もない。

 

 ただ一本、先輩の手を離れた犬のリードだけが、歩道の上を滑った。

 飼い主を失った犬は、先輩がいた場所を何度も回り、それから突然、車道へ向かって走り出した。

 

 考えるより先に、俺は駆け出していた。

 車道へ伸びたリードを右手でつかみ、力任せに引く。

 細い紐が掌へ食い込んだ。

 

 犬の小さな体が一瞬だけ宙に浮き、歩道へ引き戻される。

 その直後、けたたましいクラクションが鳴った。

 犬はもう、俺の足元にいる。

 じゃあ、何に鳴らした――。

 

 顔を上げた。

 黒いセダンが、縁石を越えて歩道へ乗り上げていた。

 まっすぐ、こっちへ向かってくる。

 俺は犬を抱き上げ、横へ飛んだ。

 間に合わない。

 そう思った瞬間、タイヤが甲高い音を立てた。

 

 セダンの鼻先が、不意に車道側へ振れる。

 俺のすぐ目の前をかすめ、そのまま車道へ戻っていった。

 

 運転席の男は、目を見開いたままハンドルにしがみついていた。

 青ざめた顔で、何かを叫んでいる。

 まるで、自分でも何が起きたのかわかっていないみたいだった。

 叫びたいのは、こっちの方だった。

 

 俺はその場へしゃがみ込み、震える犬を抱き寄せた。

「おい。大丈夫だからな」

 

 何ひとつ大丈夫ではなかった。

 それでも、他にかけられる言葉がなかった。

 

 周囲が遅れて騒ぎ始めた。誰かが悲鳴を上げる。誰かが警察を呼べと叫ぶ。

 別の誰かが救急車と言った。救急車を呼んだところで、運ぶ人間がどこにいるのかはわからないのに。

 

 気づけば人だかりができていた。

 何人もの人間がスマホを構え、城戸先輩が消えた場所へカメラを向けている。

 

 ――普通に立ってた人が、そのまま下へ落ちるんだって。

 さっき聞いた声が、頭の中によみがえった。

 ――穴なんてないのに、すとんって消えちゃうらしいわ。

 

 おいおい。勘弁してくれよ。

 

 これでは、ついさっきまで鼻で笑っていた俺の方が馬鹿みたいじゃないか。

 

 見間違いではない。勘違いでもない。俺一人が見たわけでもない。

 

 城戸先輩は、何もない地面から落ちて消えた。

 だったら、人間が突然燃えたという話も、子供たちが眠ったまま起きないという話も、本当に起きているのか?

 

 右手の奥が、もう一度疼いた。

 

 俺は震える犬を抱いたまま、どこまでも続く青空を見上げた。

 

 行ける場所は少ない。

 選べる未来も多くない。

 時計を直す仕事に興味を持っただけで、夢にする前から引っ越しの話になる。

 

 そのうえ今度は、人間が地面から消える。

 

 再訂正。

 親ガチャに続いて、生まれガチャも大外れ。

 

 こんな世界、終わればいいのに。

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