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第1話 配られたカードは、どれも外れだった


 昔、どこかで見た犬のキャラクターが言っていた。配られたカードで勝負するしかない、みたいなことを。

 

 いい言葉だと思う。たぶん正しい言葉なんだと思う。

 

 でも、それを実際に口に出せる奴は、最低限ゲームが成立するだけのカードを持っている。

 

 俺に配られたカードは、どれも外れだった。

 

 母親は、熱を出した俺を家に置いて、男との約束に出かけるような女だった。父親に至っては、顔も名前も知らない。親ガチャ外れ。

 

 生まれた街には、選べる未来が少なかった。空だけはやたら広いくせに、行ける場所は多くない。生まれガチャ外れ。

 

 得意なことくらいは、俺にだってある。けれど誰かに褒められたり、進路希望欄に書けたりするようなものじゃない。才能ガチャ外れ。

 

 努力しろと言う奴は、努力できる環境ガチャに当たっている。前を向けと言う奴は、前を向ける性格ガチャに当たっている。夢を持てと言う奴は、夢を応援してもらえる家庭ガチャに当たっている。

 俺は、その辺をすべて外した。

 

 カードもない。席もない。ルールも知らない。それなのに、負けたらおまえのせいだと責められる。

 

 ひどいゲームだ。

 

 こんなクソゲー、自分から進んで参加したいなんて言った覚えはない。

 

 とはいえ、人生というゲームは、あいにくそう簡単にリタイアさせてくれない。だから俺は、戦場からいつも少し離れた場所にいる。勝つ奴も、負ける奴も、イカサマを試みる奴も、奇跡を信じる奴も、そんなプレイヤーたちをテーブルの外から眺めている。

 

 仕方ない。眺めているくらいしか、俺にはやることがない。

 

 そんなことを考えながら、俺は窓の外を眺めていた。このままずっと眺めていてもよかったが、月曜の朝は待ってくれない。高校という別のクソゲーが、今週も強制的に再起動する。

 

 俺は眠い目をこすりながら制服に袖を通した。

 

 右袖のボタンは、昨夜、自分でつけ直した。元の糸と微妙に色が違うけれど、じっと見なければわからない。そもそも他人の袖口をじっと見るような人間とは、あまり親しくなりたくない。

 

 シャツの上にブレザーを着て、襟を整える。アイロンは昨日のうちにかけてある。そういうことをしてくれる人がいないこの家では、必要なことは自分でやるしかない。

 

 寝室を出てリビングへ向かい、俺は足を止めた。

 

 母親がいた。

 

 朝食を作っているわけでも、俺を起こしに来たわけでもない。床に大きなスーツケースを広げ、派手な服を次々と詰め込んでいた。

 

 母親は月曜の早朝より、土曜の深夜が似合う格好をしていた。明るい茶色の髪をゆるく巻き、スリットの入った黒いロングワンピースを着て、爪には赤いマニキュア。その手で米を研いでいるところを、俺は一度も見たことがない。

 

 食卓には、化粧品とアクセサリーケースが広げられていた。母親はその中から銀色の腕時計を取り出し、左手首につけようとした。けれど、文字盤を見た途端に眉をひそめた。

「やだ。これ、壊れてる」


「壊れてない。止まってるだけだろ」

 俺は母親の手から時計を受け取り、耳元へ近づけた。音はしない。裏返して傷や錆がないことを確かめる。

「たぶん電池切れ。替えれば動く」


「本当? じゃあ、暇な時にやっといて」

 母親はたいして興味もなさそうに言い、別の腕時計を取り出した。

「相変わらず、そういう細かいことだけは得意よね」


「だけ、は余計だ」

 腕時計には、その人間の性格が出る。

 値段ではない。選び方と、扱い方と、腕への収まり方に出る。

 少なくとも俺はそう思っている。かなりの偏見を含んでいる自覚はある。

 

 母親は時計を、時刻を知るためというより、服や男に合わせて選ぶ。止まれば壊れたことにして、新しいものへ替える。

 

 止まっていることと、壊れていることは、同じじゃないのに。

 

 リビングには、酒と香水と整髪料が混じり合った甘い匂いが漂っていた。母親が帰ってくると、この家はいつも少しだけ別の空間になる。ただ、今日はその匂いが、前に会った時とは違っていた。


「なにしてんの」

 俺が言うと、母親はスーツケースに目を落としたまま答えた。

「見ればわかるじゃない。荷造りよ」


「どこに行くんだよ」

「タヒチ」

「は?」

「タ・ヒ・チ。知らない? 南の島」

「一か月ぶりに帰ってきたと思ったら、今度は海外かよ」

「でも同じ地球にはいるのよ。宇宙旅行よりはマシじゃない」

 母親は笑った。

 

 俺は笑えなかった。

「なるほどね。それで着替えを取りに帰ってきたってわけ」


「一週間くらいで帰ってくるから。ああ、でも、居心地がよかったら延長アリかも」

「店はどうするんだよ」

「若い子たちに任せてある。あの子たち、私に『たまにはゆっくり休んでください』って言ってくれるのよ。嬉しいわねえ。疑ってる? こう見えても私、人望あるのよ」

 

 母親はナイトクラブを経営している。俺を産んでから夜の街を渡り歩き、五年前に自分の店を持った。経営は順調らしい。ほとんど帰りもしないこの家の金を払い続け、男と南半球の楽園へ行けるくらいには。


「あんた、男変わったろ」

「なんでわかるのよ?」

「家の匂いがこないだと違う。一か月前はもっと安い香水だった。それに前のヒモ野郎はタヒチなんかに絶対誘わない。せいぜい小樽だろ」

 

 母親はよっぽど決まりが悪いのか、笑おうとして、うまく笑えなかった。


「前の男にさんざん貢いで、捨てられただろ」

 ここで止めておこうと思った。でも止められなかった。

「まだ懲りないのかよ。今度の野郎も、どうせあんたの金目当てだぞ」


「そんなことない。今の彼は誠心誠意尽くしてくれるもの。誠実な人よ」

「高校生の息子がいる女を南の島への旅行に誘う男か。へぇ。そいつはたしかに誠実だな」


「あんたね、そのひねくれた性格、どうにかしなさいよ。女の子にモテないわよ」

「異性にモテるかどうかで動いてないんだよ。誰かと違って」


「かわいくないわね」

「な。親の顔が見てみたいよな」

 

 母親はそれを聞くと、諦めたように肩をすくめた。

 そこで俺は、大事なことを思い出した。

「おい、ちょっと待て。俺、たしかに伝えたよな。今週、三者面談があるって」


「え?」

 母親は手を止め、きょとんとした。

「そうだっけ?」


「あんたのスマホにメッセージを送っただろ」

「ああ……そういえば、見たかも」

「見たかも、じゃねえよ。一日でいいから予定を空けといてって送った」


「ごめん、無理。もう航空券だって取っちゃったし、今からキャンセルなんてできない」

 母親は悪びれることなく、蛍光色の水着を丸めてスーツケースの隙間に押し込んだ。窓の外では、四月のまだ冷たい風が吹いていた。


「ふざけんなよ」

 気づけば、語気が強くなっていた。

「今度の担任は厳しいんだ。叱られるのは俺なんだぞ」


「なんとかうまく誤魔化しておいてよ。私、昔から学校とか教師とか好きじゃないの。むやみに正論を垂れ流す人とは反りが合わなくて。正論を聞くと頭が痛くなっちゃう。新しい担任が厳しい人なら、なおさら。なんだか私まで説教されそう」


「子供みたいなこと言うなよ」

「わかった。それじゃ、タヒチから参加するわ」

「はあ? どうやって」

「スマホさえあれば、リモートでなんとでもなるでしょ」


「そういう問題じゃない」

 俺は呆れて言った。

「俺の進路を話し合うだけじゃなくて、この三者面談には新しい担任と保護者の顔合わせっていう意味だってあるんだ。あんたが隣にいてくれなきゃ困る」


「あんたまでそういうことを言うのね」

 母親は、わざとらしくこめかみを押さえた。

「いたたたた。ほら、あんたが正論を言うから頭が痛くなってきちゃった」


「酒が抜けてないだけだろ」

 

 母親は腕時計を見た。さっきまで止まった時計があった場所で、別の時計の秒針が動いている。

「あっ、飛行機の時間に遅れちゃう。そろそろ出ないと」


「おい。まだ話は終わってないぞ。三者面談はどうするんだよ」

「だから、タヒチから出るって」

「だから、隣にいてくれなきゃ――」

 

 母親はハンドバッグからブランドものの財布を取り出した。そこから一万円札をほとんど数えもせず十数枚抜き出し、食卓に置いた。

「いつもより多めに生活費を置いていくから。ね、蓮。今回だけは、これで勘弁して」

 

 ふざけんな、と言いかけてやめた。

 今日、初めて名前を呼ばれた。

 こういう時だけ、妙に母親らしい声を出す。

 その瞬間、わかった。

 もう俺が何を言おうが、この人は三者面談に来るつもりはない。

 

 これなら、はじめから頼まなきゃよかった。

 春の朝の再会に、ほんの少しでも期待した俺が馬鹿だった。

 

 母親はスーツケースを引き、玄関へ向かった。

 ドアが閉まる。

 廊下を叩くヒールの音が、遠ざかっていく。

 部屋は、とたんに静かになった。

 食卓には、十数枚の一万円札と、針の止まった腕時計が残されていた。

 金は置いていく。

 時間は置いていかない。

 実に、あの人らしかった。

 

 母親が店を始めた五年前から、だいたいいつもこんな感じだ。一週間に一度帰ってくればいい方で、長い時は三か月も顔を見なかった。

 

 しかるべき機関に相談することを、考えたことがないわけではない。

 でも、注意されたくらいで、あの母親が行動を悔い改めるだろうか。

 そんなわけがない。

 

 それに、相談した結果、母親が逮捕されたり、家から完全にいなくなったりすれば、今度は俺の生活が立ち行かなくなる。

 

 さいわい、水も電気も止まったことはない。空腹で倒れたこともない。サイズの合わなくなった靴を履き続ける必要もなければ、金が理由で学校行事に参加できなかったこともない。

 

 殴られたことだって、一度もない。

 金だけは、いつも置いてある。

 だから、たぶん、大人に相談するようなことじゃない。

 俺が我慢すればいいだけの話だ。

 

 食卓の端には、学校から渡された三者面談のプリントが置いてあった。

 保護者希望日時。

 その下には、記入欄がいくつか並んでいる。

 もちろん、すべて空欄だった。

 

 俺はその白い枠をしばらく見つめてから、息を吐いた。

 親ガチャ、外れ。

 いや、訂正。

 親ガチャ、大外れ。

 やってられない。

 

 こんな世界、終わればいいのに。


本日は第3話まで公開します。

第1章(全16話)は毎日更新です。

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