河童
少し打ち解けた二人は、岸に這いあがって岩場に腰掛けた。
「ご実家は、何処?」
「多摩の石田村っていう小さな集落さ。そろそろ田植えの季節だから、今頃は水田一面に空が映って、いい眺めだろうな」
「きっと、綺麗な処なんでしょうね」
「何の変哲もない小村だがね…いや、でもないか。実は石田村には、ある言い伝えがあってな。ここだけの話にすると約束できるなら教えてやる」
土方が重大な秘密を打ち明けるように肩を寄せると、
竹子は思わせぶりな態度を面白がった。
「…いいわ。約束する」
「今から百年以上前、あの富士山が、火を噴いた頃のことだ。
日野の、多摩川と浅川が合流する陸の舳先に、深い淵があってな。そこには、河童が棲みついてるって噂があった」
竹子は突然始まった子供っぽい話に眉を潜めた。
「なんなの?それって鳥山石燕の絵に出てくるみたいなやつ?」
土方は笑ってその問いを聞き流し、話し続ける。
「ある夕暮れ時のことだ。俺のご先祖にあたる土方隼人って男が、行商を終え、家路を急いでいた。帰り道には、件の淵の近くを通らねばならん。だが、淵の前に架かる橋を渡る頃には、もうすっかり陽も落ちていた」
竹子は岩場にうつ伏せに寝ころびながら頬杖をついた。
川のせせらぎと、柔らかな木漏れ陽。
土方の声が、なぜか心地いい。
「その時!ザバーッ!!水しぶきを上げて、川面からバケモノが姿を現し、隼人の脚をつかんで淵の底に引きずり込もうとしやがった!」
竹子の口元から、笑みがこぼれた。
「ふふ、それが河童?」
「ああ。だが、隼人は慌てず騒がず、スラリと刀を抜くと、勇敢にも、そいつの腕をバッサリ斬って落とした!」
土方がちらりと反応を伺うと、
話しを促すように、竹子が小首を傾げる。
「橋の上は血の海、河童は、奇声を発しながら、水底へ姿を消した。…なんと一撃で、バケモノを追っ払ったんだ」
「すごいじゃない」
「隼人は、河童の腕を手土産に、石田村へ持ち帰った。
その夜、夢枕に河童明神が立ってな。肩から血を滴らせながら隼人に懇願したんだ。『腕を返してくれ』と」
「それで?ご先祖はどうしたの?」
「無造作に枕元に置いてあった緑色の腕をつかむと、ヌッと差し出し、啖呵を切ったのさ。『やいやい、このカッパ野郎。俺さまの尻子玉を抜こうとしやがったくせに、腕一本、タダで返せってか?ずいぶんと厚かましい物言いじゃねえか』ってな」
「大丈夫なの?妖怪に、そんな口を利いて」
「当然よ!腕を預かってるご先祖のが、立場は上だ。河童は、カッパ語で謝りたおし、自らの腕と引き換えに、冥界に伝わる万能薬の調合を隼人に授けた。で、その秘法で作られたのが、我が家に伝わる石田散薬というわけだ」
結局、この話は薬の売り口上の長々しい枕なのだ。
「あはは、バカバカしい。けど、素敵な話ね」
土方は、ふと真顔に戻った。
「だが、俺ん家はその薬を売って食いつないできたんだ。こうなってみて、今はそれを誇りに思うよ」
「…羨ましい」
竹子はぽつりと漏らした。
「あ?」
「…自分から逃れられないのは、私も一緒だから」
竹子はなぜか自らの境遇を打ち明ける気持ちになった。
「私が今日ここに来たのは、田舎が嫌いだからでも、身を清めるためでもない。ただ、誰も自分の顔を知らない場所に逃げたかっただけ」
「たしかに、江戸っ子には田舎町なんて気づまりかもな」
多摩育ちの土方には、地域社会の閉塞感も身に染みている。
「そうじゃない。江戸にいた頃、私は養父の持ってきた縁談を断って、実家に戻ったの。あの時はどうしても、このまま赤岡の家に入って、子供を産んで、死ぬまで家を護っていくなんて将来は考えられなかった」
土方はおどけて肩をすくめた。
「おなじさ。俺は武士になりたくて、家を飛び出した」
「イケ好かない奴だけど、今のあなたは立派な武士だわ」
竹子とて、新選組とその副長土方歳三の活躍は知っている。
「それに引き換え私は、会津に来て、不義理を働いた養父の道場でまた世話になっている。居心地が悪いというか、この町には身の置き場がなくて」
土方は対岸の木立を眺めながら、腕を組んだ。
「…どうかな。京のドサクサに紛れて武士の身分は手に入れたものの、俺だってまだ何も成しちゃいない。自分が侍だってことを証明するのはこれからさ」
「いったい誰に、なにを証明する必要があるの?」
「…それもそうだな。最初はもっとはっきりした目的があったはずなんだが、今じゃもう、それが何だったのかさえ分からなくなってきた。さっきも湯に浸かりながら、そんなことを考えてたんだ」
「私は武門の家に生まれた子女に相応しい誇りを持ちたい。あなたたち男に護られるだけなんてまっぴら」
土方は思わず噴き出した。
「天晴れな心意気だな、中野竹子」
「茶化さないで」
「こう考えちゃどうだい?そもそも勝手に戦を始めたのは男どもの都合だ。巻き込まれた女が護られるのは当然だとね」
「大抵はそうだけど、今度の戦は違う。外国の船が勝手に日本に押しかけてきて、お国を守るための戦いが、いつのまにか国内の権力争いに変わってしまった。会津が大樹公(将軍)を守るために上京したのは望んでのことじゃない」
「さすが、良家のお嬢様だけあって政にも通じてるじゃないか」
「貴方は多摩の人なのでしょう?当事者の私が女だという理由だけで戦場にも立たせてもらえないのに、本来関係のない貴方が前線で戦うなんて、お門違いだと思わない?悩むくらいなら、もう止めたらどう?」
土方は薄く微笑んで、首を横に振った。
「勘違いしないでくれ。闘う理由がないわけじゃない。この数年、俺は大切な人を何人も失った。今さら自分だけ降りるなんてことはできん」
「じゃあ、悩むだけ時間の無駄よ。そうじゃない?」
土方は視線を宙に漂わせたあと、小さくうなずいた。
「もっともだな。だが、あんただって同じじゃないのか?」
「え?」
「あんたは、自分がどうしたいか、もう決めてる」
竹子は返事に詰まり、それを誤魔化すように立ち上がった。
「少し体が冷えたみたい。今度こそ、湯浴みをしてきます」
土方は動機を、竹子は理由を見失っていた。
渓流のせせらぎとともに、ゆっくりと刻が流れるあいだ、
竹子は湯に浸かりながら、水面に映る魚影を目で追い、
土方は小屋掛けで檜扇菖蒲が風に揺れるのを眺めた。
二人は、互いの中に欲するものの手掛かりを見出しつつあった。
「待っていてくれたの?」
髪を拭きながら、竹子が尋ねる。
「ばか。服を乾かしてたんだ。宿まで少しあるからな」
土方は七日町にある清水屋という旅館に滞在していた。
「そう?」
竹子はすげなく応えると、向きを変えて下男に頭を下げた。
「待たせてごめんなさい」
「え?いや、とんでもない」
下男は驚いて手を振った。
三人は無言のまま山道を下り、
そして湯川に架かる詠観橋で土方と竹子の道は別れた。
橋を渡れば若松城下へ下り、谷沿いを戻れば東山の宿々が続く。
「ありがとう」
「は?そりゃ、なんのありがとうだ?」
竹子は少し照れて、視線を逸らせた。
「ほんとね。なんでそんなこと言ったのかしら」
「俺も、礼を言わなきゃならん」
「それは、なんのお礼?」
「あんたのおかげで思い出したからだよ。なぜ俺がこんなところまで戦い続けてきたのか」
竹子は柔らかな微笑みを返した。
「お互い、悔いのない人生を」
「ああ」
最後に交わしたのは、短い言葉。




