東山温泉
会津の城下町では、迫りくる新政府軍の噂が日々囁かれている。
「彼らが街に入ってくれば、きっと若い女は陵辱される」
竹子の教え子である女や子供たちは恐れおののいていた。
竹子は、妹の中野優子に言った。
「だから、こうやって毎日稽古してるのでしょう?」
「でも、お姉さま、鉄砲には勝てないわ」
「私は討ち死になど恐れません。もしそんなことになれば、私の首を刎ねて。決して敵に渡したりしないで」
竹子は、自分たち婦女子も、戦える者は軍の一翼を担いたいと思い立った。
娘子隊を正式な小隊として認めてもらえるよう、お城に嘆願できないだろうか。
しかし女の竹子に城門は固く閉ざされており、直談判など望むべくもない。
本来であれば、藩士である赤岡を通して上申書を提出するべきだが、
今さら養父に頼ることもしたくない、いや竹子の性分としてそれは出来なかった。
しかし、それでも竹子は諦めなかった。
城の門番から上役の藩士に取り次いでもらえばいい。
竹子は知っていた。
沐浴を覗き見ていた門下生のうち何人かは、城門で見かけたことのある顔だ。
本意ではないが、彼らの弱みに付け込むのも致し方ない。
自分に下心を持っているのは分かっているから、覗きの件をバラすと脅せば話くらいは聴いてくれるだろう。
身綺麗にして、髪を結いなおし、今日にも城の高官に面会するのだ。
そう決めて、早朝の稽古を済ませると、この日は東山温泉まで足を延ばした。
温泉は城下から東へ一里足らず、湯川沿いを上流に遡ったところにある。
女の脚では城から半刻以上かかるから、近いとは言えない。
坂道を登っていくと、徐々に木々が道に迫ってきて、
やがて微かな硫黄臭が漂ってきた。
何処かで鶯の鳴く声がする。
竹子は脱衣場を兼ねた簡素な木造の小屋掛けをみつけると、
湯文字に着替え、川縁にある岩風呂まで降りていった。
しかし、そこにはすでに先客がいた。
しかも、男。
「失礼」
慌てて竹子は目を覆った。
男は湯船に浸かったまま首だけで振り返った。
「どうした?あんたも入ればいいだろ」
長い黒髪の、まるで役者のように美しい男。
一瞬、ハッとなったものの、
そのぞんざいな口調に、気位の高い竹子はムッとした。
「バカ言わないで」
「俺は一向に気にしないがね」
「貴方が気にしなくても私がします!ていうか、あなた!あの時の!」
それはかつて和田倉門の前で出会った新選組の土方歳三だった。
どうやら、相手の方も自分の顔を覚えていたらしい。
「ああ。あの時の気の強いお嬢さんか。こんな格好で失礼、その節はどうも」
宇都宮城を巡る、二度にわたる攻防。
激しい砲撃戦の末、旧幕府軍は城を維持できずに撤退、
戦火のなか、脚に銃弾を受けた土方歳三は、この温泉地で傷を癒していた。
「こんなところでまた顔を合わせるとはな。だが、会津もなかなかいいとこじゃないか」
竹子は不服そうに顔を背けた。
「田舎は性に合いません。人も、街も。ゆっくりお風呂にも入れやしない」
江戸から引き揚げてきた、知的で気高く、しかも武芸に秀でたうら若き令嬢の存在は、
それだけで地元の物見高い若者を惹きつけてやまなかった。
土方は竹子のふくれっ面を見て笑った。
「それで、お城からこんなとこまで一人で歩いて来たのか?ご苦労なことだ」
竹子は「一人」という言葉に警戒を覚えた。
「ちゃんと下男を付けています。そこに待たせてあるわ。変なことをしたら呼びますよ」
土方は掌で組んだ水鉄砲で器用にお湯を飛ばしてみせた。
「その下男とやらに同情するね」
竹子はその態度に、更に腹を立てた。
「私たち武門の者には相応の責任が伴うの。下々が傅くのは当然のことでしょう?」
「は!言うね」
土方は軽く笑い飛ばすと、無造作に立ち上がった。
「そろそろ逆上てきたんで、上がらせてもらうよ」
「ちょっと!」
竹子は紅くなって咄嗟に後ろを向いた。
「どうぞ、ごゆっくり」
木陰で浴衣を着た土方は、何処か慇懃無礼な態度で竹子に岩風呂を譲った。
「ふん!」
竹子は鼻を鳴らして土方の脇をすり抜けようとしたが、
ゴツゴツした岩場に生えた苔に足を滑らせた。
「足場が悪いから気を付けろ」
土方はとっさに竹子を抱き抱えた。
「…あ、ありがとう」
「どういたしまして」
土方はにっこり笑い、竹子を抱きかかえたまま川縁まで行くと、少し川底の深い場所を選んで彼女を投げ込んだ。
水音に驚いたヤマメが散っていくのが見える。
立ち上った水飛沫が小さな虹を作った。
ずぶ濡れになった竹子は、髪をかき上げながら怒りに燃えた眼で土方を睨みつけた。
「なにするの!」
土方は大笑いして、竹子を指差した。
「あんたがあまりお高く止まってるから、ちょっと揶揄ってやりたくなってな」
土方はそこで何度か泳いだことがあったので、川の流れが穏やかで十分足の届く深さであることも知っていた。
しかし、彼女はそんな悪ふざけの通用する相手ではなかった。
「あらそう?」
挑発的に微笑み返すと、竹子は土方の足を掴んで引っ張り込んだ。
「よせ!俺は怪我人なんだぞ?」
土方は叫び声をあげて川に落ちた。
「あははは!」
全身から水を滴らせる土方を見て、竹子も子供のように笑った。
土方は諦めの入り混じった顔で、ため息をついた。
「あんた、まるで河童だな」
「ほんと、失礼な人ね」
「ああ。なにせ百姓上りなものでね。育ちが悪くて申し訳ない」
それをどう受け取ったものか、竹子は表情を曇らせた。
「やめて。私はなにもお百姓さんをバカにしてるわけじゃ…ただ…」
土方は、ぞんざいに手を払った。
「いいんだ。俺だって別に卑下してるわけじゃない。ただ、気づいたのさ。幕臣に取り立てられたところで、俺の中身は何も変わってないってな。俺はどこまで行っても所詮百姓の小倅で、それは腰に刀を差しても、折り目のついた羽織袴を着ても変えられん」




