江戸-会津
慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いで新政府軍の掲げる錦の御旗の前に惨敗を喫した新選組は、軍艦「富士山丸」で東へ落ち延びた。
江戸に着いた彼らは、鍛冶橋門外にあった秋月右京亮という旗本の屋敷を借り受け、当座の拠点とした。
苦い帰郷を果たした局長近藤勇は、早速再起を図って陸軍所に建白書を提出することに決めた。
京で築いた旧幕府の人脈を通じて「甲州の要衝である甲府城の守備を任じてほしい」と売り込むのである。
前日の雪が残る、冬晴れの日だった。
近藤が、副長土方歳三を伴い、江戸城和田倉門前までやって来ると、
家財を積んだ大八車を何台も馬に引かせた武家と思しき一団と遭遇した。
「荷物ぁ、重ぐねぇが?」
「ええ。大丈夫」
ガラガラという車輪の音の合間から漏れ聴こえる彼らの話し言葉に気付いて、近藤は土方に耳打ちした。
「会津の上屋敷を引き払った連中…か」
このままでは江戸市中が戦場になる日も近い。
江戸詰めの会津藩士たちは家族ともども日光街道を北上し、今市宿から会津へと引き揚げるのだろう。
土方は冷笑を浮かべ、聞えよがしの皮肉で応じる。
「いよいよ江戸も危うくなってきたので、尻尾を巻いて逃げる気か。いい気なもんだな」
ところが、列の後方を歩いていた女性がそれを聞きとがめた。
「今、何を言ったのです!無礼は許しませんよ。名を名乗りなさい」
二十歳を少し過ぎた、いかにも武門の子女といった雰囲気の女だ。
もちろん、土方は動じない。
「新選組、土方歳三。残念ながら、お仲間だ」
新選組は、京都守護職を任された会津藩の旗下にある組織だった。
しかし、その女性の眼は、明らかに二人を見下していた。
「ふん、要するに雇われ浪人でしょう?一緒にしないで」
皮肉屋の土方は恭しく頭を下げた。
「これは失礼。そうだった。あんたんとこの殿さまが俺たちを置いてさっさとトンズラしたとき、自分たちの立場は十分思い知らされたはずなのに、つい昔の情に絆されて口が滑っちまったよ」
口の減らない土方に、顔を赤くして女性は激高した。
「この、無礼者!勝手なことを。あなたたちのせいで私たちは朝敵の誹りを受けているのですよ?!会津は逃げるのではなく、江戸を追い出されるのです!」
女性が振り上げた拳を降ろす前に、土方はその手首をがっしりと掴んだ。
「おっと。謝る気はないぜ?容保公が船に揺られて江戸に向かっている間、俺たちは命を張って戦ってたんだ…源さんも山崎も、死んじまった。はっきり言わせてもらうが、あんたたち会津は腰抜けだ」
その女性は目に涙を浮かべて唇を噛んだ。
「…なんですって?よくも!」
見兼ねた近藤が二人の間に割って入った。
「歳、もうよせ」
引き離され、近藤に腕を引かれながら、土方はもう一度振り返った。
堀の水面に、冬の空が白く映っていた。
「ふん、気の強い女だ」
その女性の印象的な眼は、土方の頭の片隅からしばらくのあいだ離れなかった。
女性の名は、中野竹子といった。
会津藩士、中野平内の長女である。
父が江戸詰めの勘定役であったので、彼女自身は生まれも育ちも丸の内という生粋の江戸っ子だ。
その後、赤岡大助という藩士の養女となった。
しかし、文久三年に赤岡が大坂へ赴任することになった際、養父は言った。
「他国の武士を婿養子に迎えて、二人でこの家を継いでくれまいか」
自立心の強い竹子は、養父の望みを受け入れることが出来ず、
夜中にこっそり荷物をまとめ、江戸の会津藩邸(実家)へ帰ってしまった。
しかし、今度ばかりはそうもいかなかった。
慶応三年、徳川慶喜が大政を奉還すると、時勢の波に押し流されるように、会津藩は江戸を引き払うこととなった。
土方歳三との最悪の出会いを果たした後、
翌慶応四年の春に、竹子は初めて会津の地を踏み、
中野家は、米代二ノ丁にある父の遠縁に当たる田母神兵庫の屋敷の書院を借りて住むことになった。
慣れない田舎暮らし。
当時、かつての養父・赤岡大助が会津坂下で剣術道場を開いており、竹子はそこで子どもたちに学問を教えたり、近隣の女性たちに薙刀を手ほどきしたりして家計を助けた。
四月。
磐梯山の残雪も解け、麓にある城下一帯は、美しい新緑に覆われる。
北の地、会津でも、やはり稽古が終わった後は汗を流したくなる。
しかし、道場の風呂は混浴で、江戸の武家屋敷育ちの竹子にはこれが我慢ならなかった。
竹子はひとり、屋敷の庭で沐浴をするのを日課にしていた。
そんなある日、いつものように湯文字に着替えて庭へ出ると、妙な気配を感じた。
「あ!」
竹子は小さな声を上げた。
近所に住む道場の門下生が垣根の隙間から庭を覗いている。
「なんて、恥知らずな!」
竹子は、家の下女を呼びつけた。
「薙刀を持て!」
竹子は湯文字姿のまま勝手口から飛び出し、薙刀を構えて叫んだ。
「待ちなさい!この下郎!」
「うわ!逃げろ!」
飛び出してきた覗き魔は、一人ではなかった。
「この…性根を叩きなおしてやる!」
彼女の薙刀は免許皆伝に迫るほどの腕前であったと言われていたから、これは単なる脅しではなかった。
竹子は、その不届き者たちを数度打ち据え、あっという間に追い払った。




