第90話 ほんとうの、かっこよさ
ドルレットがボンボン君とキラービーの激闘を観戦し始めて十五分ほど経ったとき、雨が降り始めました。林の中だったため樹々の枝葉が多少は屋根の役割を果たしましたが、屋根としては完璧ではないため、徐々にドルレットの身体は濡れていきました。しかしドルレットは"弱肉強食"という、あまりにも単純明快で、道徳や感情論が入る隙が全く無い自然界のルールのもとで2匹のキラービーを相手に戦うボンボン君の姿から、目を離すことができずにいました。
"自然界では、2匹や5匹どころか、100匹で1匹を倒しても反則にはならないんだ。なんて厳しい世界で生きているんだ、こいつらは⋯! "
ドルレットは固唾を呑んで戦いを見つめていました。2匹のキラービーは容赦ない攻撃を続け、雨が降り始めて五分ほど経ったとき、ついにボンボン君は堪え切れずに身体を裏返されてしまいました。しかしキラービーが毒針を腹に突き刺そうとしたとき、奇跡的にボンボン君はそれを跳ね除け、元の腹這いの状態に戻りました。
「飛んで逃げればいいのに」と思われた方もいらっしゃるかも知れませんが、チョコヘイヘイボンボンクワガタは、人間の世界でいうとドルクス属のクワガタに近く、飛翔性よりも潜洞性を優先した身体を持っているのです。つまり飛ぶことはあまり得意でなく、樹皮の隙間のような狭いところに入り込むことが得意な種類のクワガタなのです。そもそも身体が重いので飛ぶのは彼らにとって重労働で、いきなり飛ぶことは出来ません。筋肉を温めてからでないと飛べないのです。さらにクワガタは鳥のように、飛ぶための翼をいきなり広げられるわけではありません。鞘翅と呼ばれる、身体を守る鎧の役割を果たす硬い翅が、飛ぶための後翅の上にあるため、飛ぶときにはまず鞘翅を開かないといけません。鞘翅は鎧なので、鎧を脱いだ瞬間にキラービーに攻撃される危険性もあるわけです。
そんなわけでボンボン君は、飛ぶという選択肢は選ばずに、ひたすら防御に徹していました。キラービーは執拗な攻撃を続け、ついにその強力な大顎で、ボンボン君の脚を一本、食いちぎりました。
「うわっ⋯!!」
瀕死の状態のボンボン君を見て、ドルレットは思わず声を上げました。" もう俺、これ見続けるの、無理っ!! " 心優しいドルレット少年は、心の中でそう叫びました。" もう、ボンボン君が勝つのは絶対に無理だよ!勝てっこないよ⋯! " 彼はそう思いました。しかし、目を背けようとした瞬間、驚くべき光景が目に飛び込んできたのです。キラービーのうちの1匹が、油断して少しボンボン君の鋏に一瞬、近寄ったのを見逃さず、首根っこをクワガタの象徴である立派な鋏で、 " がしっ!! " と挟んだのです。
「おおおっ!! やったっ!!」
ドルレットは再び声を上げました。彼の身体は雨でずぶ濡れになっていましたが、そんなことは全く気にしていませんでした。
ドルレットが最も感動したのは、そこからでした。挟まれていない方のキラービーはボンボン君の背中に乗り、" この野郎⋯!!生意気なんだよ⋯! "と言わんばかりに激しくボンボン君の身体を揺さぶり、裏返そうとしていました。しかしボンボン君は、どれだけ揺さぶられても、決して挟んだ首根っこを放しませんでした。挟まれているキラービーも必死に抵抗していましたが、ボンボン君は残っていた体力と気力の全てを使って挟み続けていたのです。
更に五分ほど経過したとき、背中に乗っていたキラービーがボンボン君の身体の横から、毒針を下に潜り込ませ、突き刺そうとしました。ボンボン君は動揺し、鋏に入れていた力が僅かに抜けてしまいました。少し緩くなった好機をキラービーは逃さず、首を引き抜いて後ずさりしました。長い時間、首を挟まれていたせいで、キラービーはフラフラ、ヨロヨロした動きをしていました。さすがにこれ以上戦うのは嫌だと思った様子で、キラービーは飛び去りました。残されたもう1匹も、その後を追うようにして飛び去りました。
ドルレットは、感動に震えていました。" ボンボン君の勝利は、もう無い。100%、無い! " 彼は戦いの途中で、そう確信したことをはっきりと覚えていました。しかし、目の前にいるチョコヘイヘイボンボンクワガタ⋯戦いを終えて、全ての体力と気力を使い果たし、ぐったりしているチョコヘイヘイボンボンクワガタを見て、ドルレットはこう思ったのです。
" 間違いなく、勝者はこいつだ。ボンボン君だ! 2対1で、最後の最後まで諦めることなく、戦い続けた勇者が、ここにいる。今、ここにいる! "
そしてドルレットはこう思いました。
"今日、俺はたまたま林の中に入って、ボンボン君を見つけたから、こんなものすごい戦いを、命をかけた本当の戦いを目にすることが出来た。もし林間学校に参加せず、家や学校で過ごしていたら、遠い地の林の中で、こんな命がけの戦いが行われているだなんて、これっぽっちも思わなかっただろう⋯。格好いいのはヘラクレスチョコカブトで、チョコヘイヘイボンボンクワガタはたいして格好良くない、と思い続けて、生きていただろう⋯"
ドルレットはしばらく目を閉じてから、ゆっくりと目を開けました。そして、疲れ切った身体を休めているチョコヘイヘイボンボンクワガタを静かに見つめました。
"俺は⋯なんて⋯なんてバカだったんだ! 大きいとか、強いとか、速いとか、見た目が格好いいとか、そんなことで格好いいかどうかは、決まらないんだ。全ては、" 生き様 " で決まるんだ "
ドルレットは幼い頃から運動神経抜群で、喧嘩はしない子供でしたが、もし喧嘩をしたら強いことは明らかでした。彼は不良グループの子供に殴られても蹴られても、一切、反撃はしませんでした。すれば勝てることは分かっていましたが、騒ぎになって自分の父親、つまり独裁者ブラックカカオにそのことを知られてしまったら、不良グループの子供とその家族は、みんな収容所送りにされるだろうと考えていたのです。 " あのくらいのパンチやキックなら全然耐えられるし、俺が我慢すればいいや " 彼はそう思っていました。黙して耐えることに徹してきたドルレットだからこそ、必死に耐えるチョコヘイヘイボンボンクワガタの姿に激しく心を動かされたのです。
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