第88話 善と善
チョコ-1 グランプリは、準々決勝のあと2週間のインターバルを経て4月の第3土曜日に準決勝が行われることになっていました。準々決勝の4試合はチョコ浜アリーナで1試合ずつ順番に行われ、ドルレットが戦ったのは第2試合でした。第4試合の勝者と準決勝で対戦することになると知っていたドルレットは、控え室に設置されていたテレビで第4試合を観戦しました。
「え〜と⋯第4試合は⋯セルバン・コドレアヌさん対、コスミン・アルジェサーヌさん、か⋯どっちも右利き、オーソドックスの選手だと書いてありますね」
準々決勝の公式パンフレットを見ながら、ドルレットはマリウスに言いました。
「そうだ。これを見ろ。コドレアヌの方は首相撲がかなり強い。首相撲からのティーカオだな。テンカオも得意なんで、もしコドレアヌと戦うことになったら、とにかく膝蹴りを警戒しろ」
テレビの画面には、コドレアヌが地区予選で戦ったときの様子が映し出されていました。チョコ-1 グランプリはキックボクシングの大会ということになっていましたが、実際のルールは、ほぼムエタイと同じでした。組み合って行う首相撲からの膝蹴り、つまりティーカオは何回入れても反則にならないルールだったので、首相撲や膝蹴りが得意な選手は、かなり有利であると言えました。
「首相撲と膝蹴りなら、僕だって負けませんよ!」
首相撲において重要なのは、自分の身体の軸を崩さずに、相手の軸は崩すことです。それゆえ身体の安定を保つ体幹の強さが、勝負を決めるとても大きな要素になります。ドルレットはサッカーで鍛え上げた体幹の強さと、脚力の強さを持っていました。
「その通りだ、ドルレット!お前なら、もしコドレアヌと対戦することになっても、十分に渡り合える」
「ありがとうございます!⋯あ、これはアルジェサーヌさんの方ですね」
画面は、アルジェサーヌを紹介するための試合映像に変わりました。対戦相手はセバスティアン・ムンテアヌというサウスポーの選手で、アルジェサーヌの、地区予選における最後の対戦相手でした。
「うわ⋯このムンテアヌさんって人、ものすごい迫力ですね。立っているだけで、気迫が伝わってくる!」
アルジェサーヌとムンテアヌの試合は、壮絶な打ち合いでした。両者ともに目蓋を切り、血を流しながら相手に立ち向かっていく様子が映し出されていました。その死闘にドルレットは目を奪われ、夢中になりました。ムンテアヌはダッキングやサイドステップ、バックステップなどを駆使した驚異的な防御技術で、アルジェサーヌの高速フックを躱していました。
「すごい⋯!!あの速さのフックを、ギリギリのところで躱してる!!とんでもない防御技術ですね。しかも、ギリギリで躱している最中に、しっかりカウンターを狙ってる。ものすごい防御をしながら、ものすごい攻撃もしてる。この人の頭の中、どうなってるんですかね!?」
ドルレットが驚嘆して言いました。
「あの上半身の柔らかさを見ろ。背骨の代わりにバネが入っているとしか思えない動きだ。あいつは強いな。でも、アルジェサーヌも負けてないぞ。こいつの心は鋼の心だな」
マリウスの言った通り、アルジェサーヌは打たれても打たれても、立ち向かっていきました。血まみれになりながらも、目は決して死んでいませんでした。それどころか目の輝きは、時間の経過とともに増しているように見えました。そして最終ラウンドの終盤、彼の前蹴りでムンテアヌのガードが一瞬、下がったとき、アルジェサーヌは自分の全てを込めたようなハイキックをムンテアヌの側頭部に打ち込みました。アルジェサーヌは、勝ちました。
ドルレットはしばらく、言葉を失っていました。
「⋯マリウスさん⋯これですよ。僕が好きなのは、こういう試合⋯こういう選手なんですよ!僕も、こういう試合をしたい」
ようやく言葉を紡ぎ出したドルレットにマリウスは、
「お前ならできるさ。というか、既にお前はやっている。こういう、不純物が一切入っていないような戦い方を。ただ、格闘技というのは一人でやるものじゃないからな。本当に人の心を打つような試合、魂を震わせるような試合というのは、純真無垢な選手が二人揃わないと生まれないんだ。一人だけじゃ、善と悪の戦いになってしまう。それじゃダメなんだ。格闘技の真髄はいつも必ず、善と善の戦いの中にあるんだよ。フェアプレーの中にあるんだ」
マリウスはそう言ってドルレットの顔を見ました。
「もしアルジェサーヌがコドレアヌに勝って準決勝に上がってきたら、それは善対善の素晴らしい試合になるだろう。でも少し残念なのは、アルジェサーヌがムンテアヌ戦でかなりダメージを受けたことだな。あれだけの死闘をしたのだから、おそらくまだダメージは残っているだろう。お互い万全の状態でお前とアルジェサーヌが戦う試合を、俺は見たかったよ」
マリウスの言葉を聞いたドルレットは、
「そうですね。僕も同じ気持ちです。⋯とりあえず、アルジェサーヌさんとコドレアヌさんの試合を観ましょう」
ドルレットがそう言うと、マリウスは静かに頷きました。
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