第87話 シチューのような男
試合開始直後から、ボグダン・ルプは積極的に前に出ていきました。ドルレットに比べリーチが短いので、それは予想出来たことでした。
"おお、やっぱりそうくるか⋯"
ドルレットはそう思いながら、バックステップとサイドステップを併用し、リング上に大きな円を描くようにして動きながら、パンチとキックのジャブを出していました。ボグダンはダッキングで身体を低くしながら、左右のガードをしっかり固定して側頭部を守っていました。
ボグダンが準々決勝に上がってくるまでに対戦してきた相手の中には、ガードが固いことに痺れを切らし、組み合ったとき意図的に後頭部にパンチを入れる選手もいました。しかし言うまでもなくドルレットは、そのようなことを一切しませんでした。
逆にそれをしてきたのはボグダンでした。後頭部だけでなく、接近したときにローブロー、つまり股間も蹴ってきたので、ドルレットは呻き、うずくまりました。レフェリーはドルレットが回復するまでの間、試合を一時中断させました。ドルレットは"今の、明らかにわざとやったな"と思いましたが、それをレフェリーに訴えたりはしませんでした、
ところが、試合が再開されてから一分も経たないうちに、ボグダンは再びローブローを入れました。それでもドルレットは、鉄の理性と正義感、勇気、少しの天然と、太陽のような熱さと優しさをごちゃまぜにして煮詰めて出来たシチューのような男なので、激昂することはありませんでした。彼は冷静沈着に、こう思いました。
"こういう男が勝ったら子供たちの教育にも良くないから、絶対に倒そう"
レフェリーはボグダンにローブローの警告を与えました。もう一度、故意にローブローを入れたら、ボグダンの反則負けになる可能性が高くなりました。
ボグダンはその後も、脚を絡ませてドルレットを倒したり、積極的に前に出ているふりをして頭突きをしたり、卑怯な戦い方を続けました。
第2ラウンドの終盤、ドルレットはボグダンの放ったテンカオを後ろに下がって躱しました。勢いで前に出てきたボグダンのガードは下がっており、顔はガラ空き状態でした。それを見逃さなかったドルレットは、マリウスとともに磨き上げてきた左ジャブからの右ストレートをボグダンの顔面に突き刺しました。紫電一閃の右ストレートを食らったボグダンは、真後ろにゆっくりと倒れました。そして、テンカウントが終わるまで立ち上がることはありませんでした。
「きゃ〜〜!!」
「うおお〜〜!!」
「ドルレット〜!!」
ドルレットの職場である児童養護施設では、子供たちや職員たちの歓声が部屋中に響き渡っていました。遠慮をしていたシュテファンも、思わず子供たちの身体を掻き分けて、テレビが見える位置まで行きました。画面に映っていたのは、派手にガッツポーズをすることもなく、むしろ少し心配そうな顔で静かにボグダンを見つめているドルレットの姿でした。
" ドルレット⋯おめでとう! "
シュテファンは静かに微笑みながら、心の中で呟きました。
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