第86話 変化
「ひゃ〜くろくじゅうろくぅ〜てぇ〜〜ん⋯よんパウ〜〜〜ンズ⋯⋯⋯ドルレットォ〜〜⋯・レェ〜〜〜〜〜〜〜⋯ツィ〜〜〜ッ!!!」
黒いタキシードに身を包んだリングアナウンサーが、ドルレットの名前をコールしました。ドルレットは真紅のグローブをはめた右手を高く突き上げて、観客の声援に応えました。
多くの観客が、リングアナウンサーが「レェ〜〜〜⋯」と伸ばした、「レ」の音の長さに驚いていました。
「よくあんなに、息が続くよね」
「あの人がレェ〜〜〜〜〜って言っている間に、近所のコンビニに行って、買い物して戻って来られそうだよね」
「それどころか、あの人がレェ〜〜〜〜〜って言っている間に、二泊三日くらいの温泉旅行に行って、言い終わる前に帰って来られるんじゃないか?」
そんなことを言われているとは露知らず、リングアナウンサーはボグダン・ルプのコールを始めました。
「ひゃ〜くろくじゅうろくぅ〜てぇ〜〜ん⋯きゅうパウ〜〜〜ンズ⋯⋯⋯ボグダァ〜〜〜〜〜ン⋯・ル〜〜〜〜〜〜プ〜〜〜!!!」
ボグダンはものすごい速さで左右のパンチを連打する動きを見せてから、左手を高く突き上げました。ドルレットは、オーソドックスつまり右構えの選手であるのに対し、ボグダンは左構え、サウスポーの選手でした。オーソドックスの選手は右手と右足を後ろに引いて構え、サウスポーはそれと逆の構えをします。
ボグダン・ルプはドルレットよりもやや身長が低いのですが、胸囲や手脚の太さはドルレットを上回っていました。
「地区予選の映像、観ただろ?あいつはクリンチしたとき、どさくさに紛れて後頭部を殴ってきたり、不利な状況になると脚を絡めて相手を倒したりする。ローブローも他の選手より多い。おそらく、反則負けにならない程度に調節しながら、狙ってやってる。気をつけろ」
ドルレットはマリウスの言葉を聞いて、小さく頷きました。視線は真っ直ぐボグダンに向けていました。
カーン!
試合開始のゴングが鳴り響きました。
そのときドルレットが働く児童養護施設でも、同じようにゴングの音がテレビのスピーカーから鳴り響いていました。
「始まったぞ!」
「ドルレットさん、頑張れ〜!」
テレビの前に集まった子供たちや職員たちは興奮しながら、テレビに映るドルレットを食い入るように見つめていました。施設にはテレビが1台しか無く、それほど大きなテレビではなかったので、背の高い子が最善列で横並びになると、後ろにいる背の低い子たちは観ることが出来なくなってしまうのですが、背の高い子たちは興奮状態だったので、後ろにいたアナという女の子が「ちょっと〜!あなた達、背が高いんだから、私たちを前にしてよ!」と言ったとき、誰も反応しませんでした。
「これの上に立って観ればいいよ」
そう言って、本棚の前に置いてあった黄色いビールケースを持ってきたのはシュテファンでした。大人が上に乗ってもビクともしないくらい頑丈なケースです。それは本棚の上の方に収納されている本に手が届かない子のために、施設の職員が踏み台として本棚の前に置いていた物でした。
「ありがとう!シュテファン!」
アナが嬉しそうにお礼を言いました。
「ちょっと待っててね。まだ、あと二つあるから!」
シュテファンは、アナと同じように後列で「全然、見えないよ〜!」と残念そうな顔をしていたカメリアとディンカの分のビールケースも運んできました。
「ありがとう⋯!でも、シュテファンは観なくていいの?ドルレットさんの試合⋯」
カメリアがそう訊くと、シュテファンはこう答えました。
「俺は、信じてるから⋯。ドルレットは必ず勝つ、って。それに、ドルレットが俺にして欲しいと思っているのは、人を押しのけてテレビを観ることじゃないと思う⋯」
「⋯そうなんだね。シュテファン、なんだかすごく変わったね」
「え⋯そう?」
「うん。優しくなった」
ディンカにそう言われたシュテファンは、少し顔を赤らめて、「ありがとう⋯」と言いました。
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