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第84話 意味

 地下駐車場で車を降りたドルレットたちは、係の者に案内されて、選手控え室へと向かいました。準々決勝には東西南北4つの地域から2人ずつ、合計8人の選手が進出していたので、控え室も8室、用意されていました。

 入口の脇に「ドルレット・レツィ様」と書かれた紙が貼り付けられた控え室の前で、案内係の女性が「レツィ様の控え室は、こちらです」と言いました。「ありがとうございます」と言って、ぺこりと頭を下げてからドルレットは中に入りました。広々とした控え室は、壁も天井も真っ白でした。置かれていたテーブルも白く、ドルレットたちはその上に荷物を乗せました。

「試合まで、2時間くらいあるな。映画でも観るか」

 マリウスが冗談を言いました。

「それなら、『リーサル・チョコウェポン』でお願いします。主人公のチョコリッグスが最高なんですよ」

 ドルレットが、微笑みながら答えました。

「ああ、あれなら俺も観たよ。チョコリッグスとチョコマータフのコンビは最高だよな」

「 そうなんですよ!あの二人って、ちょっと、僕とマリウスさんみたいですよね。歳(とし)は僕たちの方が離れていますけど」

 ドルレットはそんなことを言いながら上着やジャージを脱ぎ、あっという間にボクシングトランクスにTシャツ1枚という格好になりました。

「多分、あと30分くらいでバンテージチェックの係員が、ルプ陣営のセコンドを連れてやって来る。あるいは俺が呼ばれて、先に向こうのバンテージチェックになるか、どっちかだ」

 バンテージチェックというのは、ボクシンググローブをはめる前に手に巻くバンテージの中に、石膏などの異物を仕込んでいないかチェックすることです。主催団体に所属する係員と、対戦相手の陣営から選ばれた人が見ている前で、バンテージを巻くわけです。

 バンテージチェックまでの間、ドルレットは控え室にある大きな鏡の前でシャドーボクシングをして、自分の動きを確認しました。


 時を同じくしてドルレットが働く児童養護施設では、施設に1台だけあるテレビの前に、施設で暮らす全ての子供たちと、当日非番だった職員も含めた、全ての職員が集まっていました。非番だった職員の家にもテレビはあったのですが、みんなと一緒に観たほうが楽しいので、わざわざ施設まで足を運んだのです。

 ドルレットはチョコ浜アリーナに子供たちや職員を招待することを考えたのですが、全員分のチケットを用意するとなると非常にお金がかかるうえ、勝ち上がると準決勝や決勝のチケットも用意する必要が出てくるので、 " さすがにそれは無理だな⋯ " と思いました。そして検討の結果、 " 決勝まで進んだら、10枚だけチケットを用意して、申し訳ないけど、くじ引きで10人を選んで、レツィカドームに招待しよう。当選しなかった子供たちには、テレビで応援してもらおう " と決めたのです。

" 勝つところを子供たちに見せて、「人生って、悪いことばかりじゃないんだよ」と伝えたい。世の中には、「努力は必ず報われるなんて、大嘘。そんな風に考える人はダメ。努力とは報われないものであるという前提で何事もやった方がいい」と言う人もいる。それは確かに、その通りなのかも知れない。でも俺は、そういうことを言うタイプじゃないんだ " ドルレットはそう考えていました。

" 俺は、「努力は、自分が思っていたのとは違う形で報われることもあるんじゃないかな?」と言いたい。ボクシングで負けたから「努力が報われなかった」、人気商売で人気が出なかったから「努力が報われなかった」、三年かけて絵を描いたのに失敗作になったから「努力が報われなかった」⋯それは、確かに報われなかったのかも知れないけど、俺はこう言いたい。「負けたあなたの試合を見て、感動して、生きる力をもらった人がいたかも知れませんよ」「本当に、人気は完全にゼロだったんですか?少なくとも一人くらいは、あなたのファンがいたんじゃないですか?もしいたのであれば、それをゼロと同一視してしまったら、その一人の人が可哀想ですよ。その人の中では、もしかしたらあなたは、断トツのナンバーワンかも知れない」「その絵を描いたことによって、少なくとも、"このやり方じゃダメだ"ということは学べたはずです!次の絵の制作は、きっと上手くいきますよ!」と⋯"


 ドルレットは独裁者ブラックカカオの息子として生まれ、成長する過程で、父親が何をしているのか、少しずつ察していきました。それゆえ彼は少年だった頃から、生と死、希望と絶望、罪と罰といった少年らしからぬ主題と向き合って考える時間を長く持たざるを得ませんでした。高校生になり、人間の世界について研究をしていたチョコレツィカからアンネ・フランクの話を聞いたとき、彼が強く興味を惹かれた理由も、そこにありました。独裁者のせいで死と隣り合わせの暮らしを強いられた自分より年下の女の子が、どんなことを考えながら生きていたのか、知りたいと思ったのです。

 そのあと何日か経ってから『アンネの日記』を借りて読んだドルレットは、驚きました。そこにいたのは、極度の緊張と恐怖が繰り返し訪れる生活の中にあってなお、明るさを忘れず、冗談まで飛ばしている女の子だったからです。

 大人になってから、ドルレットがアンネ・フランクの話を児童養護施設の職員シモナ・シリバシュにしたとき、シリバシュはこう言いました。

「2年以上も隠れ家生活を耐え抜いたのに、収容所に送られて、死んでしまうなんて⋯あまりにも可哀想です。必死に耐えて頑張ったのに⋯報われなかったんですね」

 ドルレットはそのとき、シリバシュの言葉を聞いて、こう考えました。

"アンネ・フランクは毎日、恐怖に怯える地獄のような隠れ家生活を2年以上も続けた後、隠れ家よりも何倍も酷い地獄のような収容所に送られ、そこで骸骨のように痩せ細り、最後は発疹チフスに感染して力尽きてしまった。彼女は、隠れ家での生活を努力して耐え抜いた。ゲシュタポに捕らえられ、丸刈りにされて収容所に送られてからも、ろくにものを食べさせてもらえないまま何時間も行進をさせられているのに、弱音を吐かず、立派な態度を保っていた。周りにいる人達に、優しくしていた。収容所で彼女の姿を目撃した人は、そう証言している。アンネが経験した地獄がどれほどのものだったのか⋯それはきっと、俺の想像などはるかに超えるほどの壮絶な地獄だったろう。その地獄の中でも生きようと努力していた彼女は、亡くなってしまった。それは、確かに「努力が報われなかった」ということなのかも知れない。だけど⋯だけど俺は、もしアンネ・フランクが「わたし、あんなに頑張って耐えたのに、無駄になっちゃった⋯。結局、死んじゃった⋯」と天国でつぶやいていたら、「絶対に、無駄になんてなってないよ!」と言いたい。「君は、型に嵌められるのが大嫌いな女の子だから、こんな褒め方をされるのはきっと好きじゃないだろう。でも、これは事実なんだ。君が書いた日記は世界中の人達に勇気を与え、君が書いた冗談は、数え切れないほどたくさんの人々を笑わせている。笑顔にしている」⋯俺は、そう言いたい。もちろん、そういう理屈でアンネに「努力は報われるよ」なんて、俺は言えない。口が裂けても言えない。だけど、もし俺が誰かに「アンネ・フランクの努力は、あらゆる意味において報われなかった」と言われたら、「それは、違うんじゃないか?」と言う。なぜならアンネ・フランクは、「人生は、生きているうちが全て」と考える人ではなかったと思うからだ。彼女は日記に、「私は死んだ後も生き続けたい!」と書いていた。そして、文章を書く才能と、文章を書いて自分の中にあるものを表現する機会を与えてくれた神様に感謝している、とも書いていた。つまり彼女にとっては、自分が書いた文章が死後も読まれ続けることが、「死んだ後も生き続けること」だった。生き残って家族との幸せな暮らしに戻るという彼女の願いは、叶わなかった。しかし、文章を書くことに情熱を燃やし、多くの物語と日記を残した彼女の、「死んだ後も生き続けたい」という願いは、叶ったんだ。だからやっぱり俺は、誤解を恐れずに言うなら、彼女の努力は報われたんじゃないかと思う。彼女の努力には、とてつもなく大きな意味があった⋯そう思う"

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