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第77話 1944年7月15日

「ダリア、お前はわたしのことまだ全然分かってないな!わたしはイケメンなどというものに興味はまったく⋯」

 クララはそう言ってアドリアンのところに戻ろうとしましたが、ダリアが「ほら!!この人!!」と言うので、思わずテレビの画面に視線を向けてしまいました。

「⋯ん!?」

 電源を切られたロボットのように、クララの身体が静止しました。そのあと彼女は眉間に皺を寄せて前に身を乗り出し、テレビの画面を凝視しました。そのとき画面に映し出されていたのは、アルマンド・クレトゥと試合をしているドルレットの姿でした。ちょうど第1ラウンドが終わったところで、ドルレットが肩で息をしながら、セコンドのマリウスが発する言葉に耳を傾けているところでした。ドルレットとアルマンドの試合は俗に言う"塩試合"ではなく、白熱して会場も盛り上がったため、番組の中で異例の扱いを受け、試合開始から終了まで、余すところなく放送されたのです。

 クララはドルレットの顔が大きく映し出されたとき、それがデチェバルであるとすぐに確信しました。クララと面談をしていたころ短髪だった髪は伸び、センター分けになっていましたし、少年らしさを残していたあの頃とは違う"大人の男の顔"になっていましたが、澄み切った目の輝きは全く変わっていませんでした。

「ど、どうしたの!?クララ⋯この人、クララの知り合い!?」

 画面を見つめたまま固まっているクララを見て、ダリアが訊きました。

「あ、ああ⋯ちょっとな⋯」

 そう答えてからクララは、こんなことを考えました。

"今、テレビに映し出されていたデチェバルの目は、「趣味として格闘技を楽しんでいます」というような目じゃない。あれは、自分の全てをかけて、何かをつかみ取ろうとしている男の目だ!⋯彼は大学に行くなら法学部の法律学科か政治学科がいいと言っていたが⋯ブラックカカオの息子という素性のせいで、法曹界に入ることや一般企業に就職することを諦めざるを得なくなり、格闘技の道で⋯身体ひとつで生きていく道を選んだのだろうか⋯"

 アルマンドのパンチやキックがドルレットに当たるたびに、クララは思わず目を閉じ、心の中で"やめて!!"と叫びました。まるで、自分が殴られたり蹴られたりしているかのような痛みを感じました。逆にドルレットのローキックがクリーンヒットしたときには、「よしっ!!」と声を出して喜んでいたので、ダリアはなぜクララがそのような反応を示すのか分からず、驚きと困惑の混ざった顔をしていました。

「いけっ!!そこだっ!!⋯バカッ!!そこじゃないだろっ!!」

 クララはムエタイやキックボクシングに関する知識は何も持っておらず、試合を観たのもそのときが初めてだったのですが、自分がドルレットのセコンドであるかのように、叫んでいました。

 バシィッ!!!

 アルマンドの放った強烈な左フックが、ドルレットの頬をえぐりました。ドルレットはよろめいて、倒れそうになりました。

「⋯!!こ、こいつ、許さん!!デチェバルを思い切り殴りやがった!!絶対許さんっ!!」

 クララがそう叫ぶと、トシヒコが「キックボクシングなんだから、そりゃ殴るだろ!」と突っ込みを入れました。

「ていうか、この男、デチェバルっていうのか?やっぱり知り合いだったのか⋯」

 トシヒコはそう言うと、クララは「トシヒコ、すまんっ!!後で説明するっ!!」と答えました。

「いけっ!!そこだっ!!」

 興奮しているクララの横にアドリアンが来ました。単語帳の件からも分かるようにアドリアンは少々天然なところがあり、空気を読まずに行動することも時々ありました。

「あの〜、ちょっと質問したいんですけど⋯ヒトラーは選挙を経て権力を握っていったから、3類型で言うと合法的支配ですか?」

「違う!ナチスが選挙で圧倒的な数の議席を得るようになったのは国会議事堂放火事件の後なんだが、そもそもあの事件はナチスの自作自演の可能性があるんだ。事件を利用して国民の不安を煽り、勢力を一気に伸ばして、全権委任法で、既に死に体だった他党の息の根を止めた。合法的支配じゃなくてカリスマ的支配っ!」

 クララは顔も視線もテレビに向けたまま、ものすごい早口で解説をし、さらに続けてアドリアンに、こう言いました。

「アドリアン、お前もこの試合を観ろっ!!世の中にはな、ヒトラーのように汚いやり方で権力を握って威張ろうとするやつと、汚いやり方で勝つくらいなら、負けたほうがマシだと思って、正々堂々と戦うやつがいるんだ。この、テレビに映っているお兄さんを見ろ。この人はな、後者なんだよ。わたしは、初めてこいつと会ったときに、すぐ分かったんだ。こいつは素晴らしいやつだ、ってな」

 アルマンドの左腿にデチェバル、もといドルレットのローキックが炸裂し、アルマンドの動きが一瞬止まりました。

「いけ〜!!今だ〜!!」

 クララの叫び声が聞こえたかのように、テレビに映し出されているドルレットは強烈なテンカオをアルマンドのみぞおちに突き刺し、アルマンドは崩れ落ちました。カウントが終わり、カンカンカン⋯と試合終了のゴングが鳴り響きました。

「きゃ〜〜〜!!やった〜!!」

 クララは歓喜の声を上げて、横にいたアドリアンに抱きつきました。アドリアンは困惑しながら「か、勝ちましたね!!なんだかとっても、誠実そうなお兄さんですね、あの人⋯」と言いました。クララはとっても単純な人なので、「お、おおっ!!アドリアン、お前、人を見る目あるな!!」と嬉しそうな顔をして、「何でも質問していいぞ!!答えられるかどうか分からんが、分かることについては手抜きせずに解説することを約束する!」と言いました。アドリアンは、「えっ、ほんとですか!?じゃあ⋯ちょっと、チョコレツィカさんの本で解説されてた議会制民主主義について質問したいんですけど、あれって立候補しないと議員になれませんよね?ということは、"わたしより、もっとふさわしい人がいますから⋯"と言って遠慮する謙虚な人は議員になれないってことじゃないですか?そうなると、図々しい人ばっかり議員になっちゃいません?」

 アドリアンの言葉を聞いたクララは、大爆笑しました。

「ハハハハハ!!⋯"立候補する人はみんな図々しい人"という考え方は明らかに飛躍し過ぎだが、アドリアン⋯お前の意見は、なかなか鋭く民主主義の制度的欠点を突いているぞ!"ワタクシ自身は、出しゃばるつもりは毛頭無かったのでございますが、周りにいる方々から「この国を変えられるのは、君しかいないんだ!」との強いお言葉を頂き、この度、立候補を決意致しました"とか言ってる人でも、最終的には自分の意志で立候補しているわけだからな。そして有権者は、そういう人達の中から一人を選んで、投票しなければならない。"この人を信じる" "この政党を信じる" そういう、信じる気持ちが無ければ大統領制にせよ議院内閣制にせよ民主主義は成立しないが、信じるという行為には、常に、裏切られる可能性がつきまとう。だから、内閣不信任決議のような制度を用意して、保険をかけているわけだ。それでもやはり、民主主義の根幹は"信じる"という行為なんだよ。"信じる"⋯わたしは、この言葉の響きが好きだ。誰かがこの言葉を口にしたとき、わたしはそこに"不安"を見出す。"もしかしたら、裏切られてしまうかも知れない"という、不安を。それと同時に、"それでも、わたしは信じる!"という、『健気な強さ』を、わたしはこの言葉から、感じる。弱さと強さが、この"信じる"という言葉には同居しているんだ。この言葉が持つそういう美しさに気づかせてくれたのは、アンネ・フランクだった。ナチスのゲシュタポが、隠れ家にいた彼女たちを発見し拘束したのは1944年の8月4日だが、その直前の7月15日の日記に、彼女はこう書いていたんだ。"わたしは今でも、人間の本質は善であると信じている"⋯と。2年以上も毎日、階下の物音に怯え、いつ見つかって殺されるか分からない恐怖の中で過ごしてきた15歳の女の子が、そう書いたんだ。何も悪いことをしていないのに、地獄としか言いようのない恐怖の中で生きることを強いられた彼女が⋯。彼女は、ほうれん草ばかり食べなきゃいけないときには、"もしかしたら、いつかポパイみたいに強くなれるかもしれないけど、今のところそんな気配は全然ない"と日記に書き、悲惨な状況を少しでも笑いに変えようと努力していた。そして、落ち込むことはよくあるが絶望したことは無いと書き、隠れ家での生活はロマンチックな冒険だと思っている、とまで書いたんだ。どんなに空が晴れていても外出することができず、煙草を欲しがって騒ぐ大人や、毛皮のコートに執着する大人に囲まれて、多感な時期なのにバケツで用を足さなきゃいけないような生活⋯そんな生活の中で面白いギャグを日記に書いたり、"この生活はロマンチックな冒険"なんて書くことは、わたしだったら、とても出来ない。まして、"人間の本質は善である"などと書くことは、到底、無理だ。だからわたしは、アンネ・フランクを心の底から尊敬しているんだ。アドリアン、チョコレツィカさんの書いた本を読むのもいいが、わたしが一番お前に読ませてやりたいのは、『アンネの日記』なんだ。アンネ・フランクが書いた日記には、どんな学術書、どんな文学作品でも敵わない何かがある。その何かが、とても大切なことを教えてくれるんだ。わたしはあの本をいつか、なんとかしてチョコの国で出版出来るようにして、広めたいと思っているんだ」

 クララの言葉を聴き終えたアドリアンは、しばらく黙ったまま、手に持っている本の表紙に書かれた文字を見つめていました。そこには、こう書かれていました。


 基本的人権と民主主義  チョコレツィカ・ディマ


「あの⋯クララさん⋯」

 アドリアンはクララの目を真っ直ぐ見つめました。

「クララさん、本当はチョコレツィカさんなんじゃ、ないですか?」

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