第70話 アヒル作戦
ドルレットはシュテファンが意識を取り戻した翌日から職場に復帰し、子供たちのお世話や、その他の業務をこなしながら、早朝と夜、そして休日にジムでトレーニングをする生活が再び始まりました。
ミットを装着してドルレットのパンチや蹴りを受けているとき、マリウスはこんなことを思っていました。
"こいつは、おれが今までに見てきた他の選手とは、明らかに何かが違う⋯キックが重い、パンチが速いといった分かりやすい特徴もあるのだが、もっと根本的なところで、大きく違う何かがある⋯"
マリウスは毎日、"その違いは、何なのだろうか"と考え続けましたが、明確な答えは出ませんでした。ただマリウスは、その違いは肉体ではなく精神から生じたものだろうと推測していました。
ドルレットは人前で暗い表情を見せることのない男でした。しかし実際には、"チョコレツィカさんに再び会える日は、来るのだろうか" "独裁者の息子である自分は、これからどうやって生きていけば良いのだろうか" "子供たちから両親を奪った独裁者の息子であるこのおれに、子供たちのお世話をする資格はあるのだろうか"そんなことを考え、不安に押し潰されそうになった夜は数え切れないほどありました。しかし、そのたびに彼は"きっと再会出来る。おれは、そう信じる!" "おれは、おれだ!それを証明するためにトレーニングしているんだ!" "もし資格が無いなら、資格を取得するために修行していると考えればいいじゃないか!"と気持ちを切り替え、前に進み続けました。
1月になり、いよいよ地区予選が始まりました。マリウスが提案し、大富豪ヤスミン・ディニクがスポンサーとなって実現した、チョコの国初の本格的なキックボクシングの大会『チョコ-1 グランプリ』の地区予選です。
ドルレットが住む地域の地区予選会場であるチョコパフェ市民体育館では、当日の朝、トーナメントの組み合わせを決める抽選会が行われました。ドルレットが1回戦で戦う相手は、チョコポルトという港町に住む漁師の青年、アルマンド・クレトゥに決まりました。チョコ-1 グランプリは階級別に試合が行われる大会で、ドルレットがエントリーしたのは76キロ以下のスーパーミドル級でした。したがってアルマンドの体重はドルレットとほぼ同じだったのですが、身長はアルマンドの方が10センチ上回っていました。マリウスは、険しい表情でドルレットにこう指示しました。
「あいつはお前より身体は細いが、身長も高いしリーチも長い!頭を左右に振りながらダッキングして中に飛び込め。油断するなよ!油断したら、負けるぞ!」
ダッキングというのはアヒルに由来する用語で、膝と股関節を使って自分の頭と身体を低くすることです。つまりアルマンドは、「相手の方が腕が長いし背も高いから、身をかがめて中に潜り込んで戦え」と指示したわけです。
「分かりました!!アヒル作戦ですね!!グワッグワッと鳴きながら倒してやりますよ!!」
「鳴き真似はしなくていい!とにかく姿勢を低くしろ!」
チョコ-1 グランプリの試合は3分3ラウンドを基本として、決勝戦のみ3分5ラウンドで行われることになっていました。決勝以外の試合は、9分間戦って決着がつかなかった場合、3人の副審による判定で勝敗が決まることになっていましたが、決勝戦は5ラウンド戦って決着がつかなかった場合、最長で10ラウンドまで延長されると規定されていました。




