第68話 透明な表情
ドルレットはシュテファンを左手、左腕、左胸、左肩を使って身体の前側で担ぎ、リュックを背負い、懐中電灯を右手に持って山を下ろうとしました。しかし豪雨でぬかるんだ急峻な斜面を、その形で下っていくのは無理だと、ほんの少し歩いただけで確信しました。
"とてもじゃないが無理だ!麓に着くまでに百回以上転ぶぞ、これじゃ!せめて登山用の靴を履いていれば⋯くそっ!"
ドルレットはそのとき、ふと気づきました。
"待てよ⋯、懐中電灯を口に咥えればいいのか!"
ドルレットの懐中電灯はコンビニで買った円筒形の物でしたが、細身だったので咥えることが出来ました。シュテファンの両親の写真とチョコモンカードだけを上着のポケットに入れ、他の荷物は全て諦め、シュテファンを背中に背負おうとしました。
"うわ⋯無理だ!全く動かない人を背中に乗せるのって、めちゃくちゃ難しい!⋯ていうか、試みる前に気づけよ、おれ!"
途方に暮れたドルレットはその場にへたり込みました。
"よし⋯待とう。ここで、救助隊が来るのを待とう!動くだけが勇気じゃない。ときには『勇気ある静止』も必要だ!"
ドルレットは地べたに座り、登山道のすぐ脇にある樹に寄りかかり、シュテファンの身体を少しでも温めようと、彼を抱きしめました。しばらくするとドルレットは寒さを感じなくなり、猛烈な眠気に襲われました。それは低体温症の典型的な症状でした。
"ね⋯寝ちゃ駄目だ⋯!寝ちゃ⋯駄目⋯だ⋯"
ドルレットは抵抗しようとしましたが、結局眠りに落ちてしまいました。
チョコの国では救急に遭難の通報をすると、消防指令センターと警察の通信指令室の間に構築された連携システムによって直ちに情報が共有され、可及的速やかに警察の救助隊が現場に向かうようになっていました。しかしドルレットが登ったのは夜間だったため、チョコネゴユ山を管轄するネゴユ警察署に置かれている山岳救助隊の隊員のほとんどは自宅にいました。署内にいたのは当直の隊員二名のみだったため、ドルレットは指令センターのオペレーターに「救助隊の到着は救急車よりも遅くなります。麓に到着するのは、早くても1時間後です。それから登り始めることになります」と言われました。
目を覚ましたとき、ドルレットは病院のベッドの上にいました。
まず目に映ったのは、白い天井でした。自分が何をしていたのか思い出せず、彼は視線を自分の身体に向けました。左の前腕に透明の細い管が固定されていました。
"ん⋯?これ⋯点滴だよな⋯?あっ!"
自分が何をしていたのか思い出したドルレットは、「シュ⋯シュテファン!シュテファンはっ!?」と叫びました。
「ドルレットさん、安心して下さい。彼は、あなたと一緒に救助されましたよ。命に別状はありません。助かったんです。あなたのおかげで」
そう答えたのは、ベッドの右側に置かれたスチールパイプの椅子に座っていた児童養護施設の女性職員、シモナ・シリバシュでした。
ドルレットは数秒間、黙ったままシリバシュの顔を見つめていました。やがて、大きく息を吸い込んでから、ゆっくりと吐き出し、「⋯良かった⋯」と独り言のように言いました。
「あっ!」
「どうしました?ドルレットさん?」
「あいつの、両親の写真と⋯チョコモンカードは⋯失くなっていませんか!?大丈夫でしたか!?僕の上着のポケットに入れておいたんですけど⋯!」
「えっ⋯そうなんですか?ドルレットさんが着ていたものは
びしょびしょに濡れていたので、おそらく乾かしているところだと思いますよ」
「ポケットの中身を確認しないまま乾燥機にかけられたりしたら、大切な写真とカードが、めちゃくちゃになってしまう⋯!」
ドルレットはそう言ってベッドから降りようとしましたが、シリバシュが慌てて制止しました。
「だ、駄目ですよ!ドルレットさん!わたしが確認してきますから、ドルレットさんはおとなしくしていて下さい!」
「お、おとなしくって⋯!」
「アハハ!言い方悪かったですか?でもホント、おとなしくしてないと駄目ですよ!」
シリバシュが少しおどけてそう言うと、ドルレットも少し笑みを浮かべて、「分かりました。じゃあ、すみませんがお願いします」と答えました。
シュテファンの両親の写真とチョコモンカードは、ドルレットの上着のポケットから無事、見つかりました。しかしどちらもダメージがあり、折れ曲がったり、表面が少し剥がれたりしていました。
ドルレットが目を覚ましたのは救助されてから8時間後でしたが、シュテファンが意識を取り戻したのは35時間後でした。そのときドルレットはシリバシュと一緒に、シュテファンのベッドの脇に並べて置かれた椅子に座っていました。ドルレットの低体温症は比較的軽度だったため、帰宅出来るレベルまで既に快復していたのです。
シュテファンは目を開いたとき、ドルレットと同じように、自分が何をしていたのか分からないという顔をしていました。やがて自分が山に向かって歩き続け、到着し、登っていったことを思い出しました。
彼は何とも表現し難い透明な表情で、黙ったままドルレットとシリバシュの顔を見ました。その表情は、喜怒哀楽のどれにも当てはまらず、かと言って冷たい無表情とも違う、不思議な表情でした。例えて言うなら、夜空に浮かぶ月を一人で静かに眺めている詩人のような⋯そんな表情でした。




