第65話 あの人のために
ドルレットは仕事がある日も、まだ子供たちが寝ている午前4時半に起床して、走り込みや縄跳び、シャドーボクシングなどのトレーニングを積み重ねていきました。マリウスのジムは午後10時まで開いていたので、仕事を終えた後はジムに行き、ミット打ちやサンドバッグ打ち、スパーリングなどを行っていました。
ドルレットはサッカーの実力者だったこともあり、最初からキックに重さがありました。「初心者でこんなに重い蹴りを打てる奴はなかなかいないぞ!」とマリウスが興奮したほどでしたが、サッカーの場合はインステップ、インフロント、アウトサイド、インサイド、トゥ、ヒール⋯と、どのキックも足首から下で蹴るのに対し、キックボクシングの蹴りは脛に当てるので、その感覚に慣れる必要はありました。また、サッカーでボールを蹴るときには腕を振って身体のバランスを取るのですが、キックボクシングの場合は腕を高い位置に上げてガードに使わないといけないので、ドルレットはその感覚に慣れるための努力も積み重ねていきました。
サッカーの経験は蹴りの重さだけでなく、スタミナの面でも活かされました。ドルレットは大学でもサッカー部に所属していたうえ、サッカーの上達のために小学生の頃から15年近く、ほとんど途切れることなく毎日、早朝ランニングを続けていたので、持久力には自信があったのです。
マリウスは10月のある日、ドルレットに「地区予選のスケジュールが決まったぞ」と告げました。
「来年の1月の頭から始まって、3月の中旬まで二ヶ月半かけて8人に絞り込む。そして4月に準々決勝と準決勝を、チョコ浜アリーナで行う。そして6月にレツィカにあるレツィカドームで決勝戦だ」
レツィカというのは、チョコの国が議会制民主主義の国として生まれ変わったときに作られた新しい首都で、名前の由来は言うまでもなくチョコレツィカでした。
"絶対に、絶対に決勝まで進んで、勝ちたい⋯"
ドルレットは心の底から思いました。
"俺が心から尊敬している、大好きなチョコレツィカさんの名前がつけられた首都と、ドーム⋯。そこで勝ちたい。そこで勝つ俺の姿を、チョコレツィカさんに、見せたい"
ドルレットは走っているときも、サンドバッグを蹴っているときも、スパーリングをしているときも、チョコレツィカと、施設の子供たちのことを考えていました。
"チョコレツィカさんや子供たちが味わってきた悲しみ、孤独、絶望に比べたら、こんな痛みはたいしたことは無い。遊びみたいなものだ"
彼は体力が限界に近づいたとき、いつも自分にそう言い聞かせていました。そして別荘で面談をしたときの、チョコレツィカの優しい笑顔を思い出していました。
"自分の両親を殺した独裁者の息子だと知っているのに、俺にあんなに優しくしてくれたんだ、チョコレツィカさんは。それだけじゃない。誰よりも俺を守ろうとしてくれた。俺の人生を必死に守ろうとしてくれた。次は、俺が守る番だ。俺はチョコレツィカさんをもう一度、あの笑顔にしてみせる。そして二度とその笑顔が曇らないように、自分の人生の全てをかけて、守り続けてみせる"
ドルレットはチョコレツィカがただ真面目なだけでなく、お茶目な一面や、ちょっとだらしない面を持っていることも良く分かっていました。初めて面談をしたとき、"わたしのこと恨んでいるだろうし、殴られるかも知れない"と思っていたチョコレツィカは、ドルレットが意外にも明るく挨拶し、気さくに話してくれたことに動揺し、目をぱちくりさせました。そのときのチョコレツィカの可愛らしい表情をドルレットはよく思い出していました。
"あの人、憲法の草案を作ったりするような凄い人だし、ハードボイルド小説に出てくる女性捜査官みたいな雰囲気なのに、なんか可愛いんだよな⋯。ちゃんとお酒は控えてるかな⋯。あの人の心を守ると同時に、肝臓も守っていかないとな⋯!"
ドルレットはそんなことをよく考えていましたが、そういうときクララはたいてい、チョコフィエルのバーで「トシヒコ、ギムレットもう一杯!!」などと言っているのでした。




