第64話 ドルレットの決意
ドルレットは児童養護施設で働き始めてからも、キックボクシングのジムに通い続けていました。マリウス・エミネスクという58歳の男が経営者とトレーナーを兼務しているそのジムは、児童養護施設から自転車で二十分くらいの場所にありました。ドルレットはアパートを引き払って住み込みで働いていたのですが、同じように住み込みで働いている職員は他にもおり、通いの職員が夜勤に入ることもありました。ドルレットも含め、職員全員が週休二日で働いていました。
ドルレットは日雇いの仕事で暮らしていた頃も、週に二日は必ず休みの日を設けて、そのうちの一日をジムでのトレーニングに使い、残りの一日をチョコレツィカを探すことに使っていました。毎週、チョコフィエルまで足を運び、チョコレツィカの行きそうなバーや図書館、書店などを見つけては、中に入り、別に飲みたくはない酒を注文して、キョロキョロと店内を見回したりしていたのです。実を言うとドルレットは、トシヒコがマスターを務めるオーセンティックバー、『クイブル・デ・チョーリ』に入ったこともありました。しかし不運なことに、そのときはチョコレツィカ、もといクララは来店しておらず、ドルレットは「ここもダメか⋯」と、ジャックコークを一杯飲んだだけで店を出てしまったのです。
児童養護施設で働き始めて二ヶ月ほど経った頃、彼はチョコフィエル通いをやめました。チョコレツィカとの再会を諦めたわけではなく、作戦を変えたのです。そのきっかけとなったのは、ジムでマリウスから、チョコの国で初めて開催されるキックボクシングの全国大会の予選にエントリーするよう、促されたことでした。
「チョコの国で初の、キックボクシングの大規模な大会を開催するのが俺の夢だったんだが、ついにスポンサーが見つかった。ヤスミン・ディニクという大富豪の爺さんだ。格闘技が大好きで、俺が"キックボクシングをもっと広めたいんです"と猛アピールしたら、"よし、やってみろ!金に糸目はつけん!"と、快諾してくれたんだ。ドルレット、お前も地区予選にエントリーしろ。勝ち上がって決勝まで進めば、レツィカドームで、6万人の観客の前で試合が出来るぞ!」
マリウスは目をきらきらと輝かせながら、ドルレットにそう言いました。ドルレットが「決勝まで進んだら、試合前に、記者会見が開かれたりするんですか?」と訊くと、マリウスは「そうなるだろうな!テレビ局は生中継で放送するだろうし、インターネットでも生配信されるだろう」と答えました。その言葉を聞いたときにドルレットは、大胆にもこんなことを思いついたのです。
"そうだ!これだ⋯!!記者会見で、チョコレツィカさんに呼びかければいいんだ!!観に来て下さい、って!俺がブラックカカオの息子であることなんて、マスコミが察知する前に、自分から言ってやる!俺は、確かにブラックカカオの息子だ。だけど、俺は今までずっと、悪いことはしないように、出来るだけ周りの人達に優しくするように、心がけて生きてきたつもりだ。俺の立場で出来る、精一杯の誠実な生き方を、してきたつもりだ。それでも俺を罵る奴がいるなら、それはもう、俺が悪いんじゃない。そいつの心に問題があるだけだ。俺は会見の場で堂々と言ってやる。俺は父親とは別の存在だと。俺は"ドルレット・レツィ"だと!俺は必ず、試合でそれを証明してみせる、と!そして決勝戦で闘う俺の姿を見せて、チョコレツィカさんとシュテファンに伝えるんだ。俺がどれだけ、大切に思っているかを。そして施設の他の子供たちにも、伝えるんだ。努力は決して無駄にはならないということを!"
そう決意してからドルレットは、勤務時間以外の、自由に使える時間のほとんど全てを、キックボクシングのトレーニングに充てるようになりました。その頃、チョコの国ではキックボクシングの競技者人口が少しずつ増えてきていましたが、まだ競技者団体は組織されおらず、ランキング制度なども存在していませんでした。各地にあるジムが体重別で出場者を募集して、小さな大会がしばしば開かれるような状態だったのです。もちろん、各地にはそれぞれ、「あいつはヤバい」と言われるような実力者がいましたが、プロとしてキックボクシングで生計を立てている人はおらず、黎明期と言っていい段階でした。
「ドルレット、お前が思っている以上に、この国には強敵がたくさんいる。しかもディニクさんは、豪邸を建てられるくらいの賞金を優勝者に出すと言っている。金目当てで、死ぬ気で鍛えてくる奴もたくさんいるだろう。優勝するのは至難の業だ。優勝したいなら、死ぬ気でやるしかない。分かってるな?」
マリウスにそう言われたドルレットは、笑顔で「はい!頑張ります!」と答え、サンドバッグ打ちを始めました。
ドルレットは、ひたすらサンドバッグを打ち続けました。自分の運命と闘うかのように、鋭い目付きで一心不乱に打ち続けました。
"俺は、俺の運命を変えてみせる。チョコレツィカさんの運命も、シュテファンの運命も、施設の子供たちの運命も⋯!一人残らず、みんな、俺が絶対に笑顔にしてみせる!"
一発打つたびに自分の決意が強く固まっていくと信じているかのように、ドルレットはサンドバッグを打ち続けました。彼の心は、今までの人生で一度も経験したことがないほど、熱く燃えていました。拳に衝撃が伝わるたびに、彼は思いました。"これは、チョコレツィカさんが感じた痛みだ" "これは、シュテファンの流した涙の痛みだ" "これは⋯人殺しの息子として生まれた、俺の痛みだ!" "俺は、負けない。全ての痛みを⋯力に変えてみせる!"




