第138話 この世界の全て
クララはオブシディアン・タワーの広大な屋上を歩き始めました。ドアを開ける際は警戒していましたが、だんだん意識が変化してきました。
"向こうは銃を持っているが、私は丸腰だ。今更、警戒しても仕方無い"
そう考えるようになり、屋上に設置されたエレベーターの機械室と高置水槽の間を歩くときも、ど真ん中を堂々と歩いていました。高置水槽の横を通り過ぎ視界が大きく開けたとき彼女は顔を右に向け、30メートルほど離れた場所に立っている中年の男と若い女性を発見しました。男は黒いジャケットに青いデニムパンツ、女性は白い長袖のワンピースを着ていました。女性の両腕はガムテープで胴体と一緒にぐるぐる巻きにされており、男は背後から左腕を回して女性の肩を抱き、逃げられないようにしていました。そして右手に持った拳銃の銃口を、女性のこめかみに押し当てていました。
「プルガル⋯お前、そこまで堕ちたのか?そこまで、クズになったのかよ」
クララは男の耳に届くよう、大きな声で言いました。
「うるせえ!!堕ちたのはお前だろうがよ!」
プルガルに肩を抱かれたオティリアの長い髪が、今にも泣き出しそうな空の下で風に吹かれ、うつくしくなびいていました。
「お前それ、どういう意味で言ってるんだ?説明してみろよ」
「コードナインのメンバーだったくせに、ブラックカカオの息子と仲良くしてるだろうが!お前は!恥を知れ⋯チョコレツィカ!!コードナインは、レジスタンス組織なんだぞ!独裁者に立ち向かう組織だろうが!!」
プルガルが興奮しながら話すので、手に持った銃も左右に揺れ、オティリアのこめかみにゴツンと当たりました。オティリアは「いたっ!」と声を上げました。それを見たクララは、激昂しました。
「おい!!!ジジイ!!!お前!本当に!!ふざけるなよ!!?私の可愛いオティリアに!!お前!!本当に!!絶対に許さん!!」
もちろん通常時のクララであれば、「私に"私の可愛いオティリア"などと言う資格は無い!呼び捨てにするなんて、とんでもない!オティリアさんに対して、最大限の敬意を払わなければいけない!」と考えるのですが、完全に興奮状態だったので、つい本音が出てしまったのです。
「はぁ!?可愛いオティリアだと!?チョコレツィカ、お前は何を言っているんだ?さっき、このガキは、"チョコレツィカさんに会ったことは一度も無い"と言っていたぞ?くそっ、やっぱり嘘だったのか!?クソガキめ!」
「おい!!ジジイ!!私の可愛いオティリアを、クソガキ呼ばわりしたよな?今!お前、いい度胸してるじゃないか。絶対に許さんからな!?あと、言っておくが、それは嘘ではない。私は今ここで、初めてオティリアに会ったんだ」
「嘘つけ!!初めて会ったのに、"私の可愛いオティリア"なんて、言うわけないだろ!」
「は!?なんでだよ。まったく、これだから想像力の欠片も無いバカってのは嫌なんだよ!!あのな、じゃあ、お前みたいなバカのために説明してやるよ。どうして、オティリアが私にとって大切な存在なのか。可愛い存在なのか。命を賭けても守りたいと思える存在なのか!⋯オティリアはな、チョコクラージュが私を守るためにブラックハウスを爆破したとき、まだ10歳の女の子だった。お前の親がオティリアの父親に殺されたときなんて、幼稚園児だよオティリアは!無邪気に父親に甘えてるだけの、可愛い幼稚園児だよ!その幼稚園児に、罪があると言って銃口を突きつけているバカが、お前なんだよ!オティリアは父親が何をしているか、まるで知らなかった。革命の後も、小学生だった彼女が受ける精神的ダメージを考慮して、我々は積極的に教えることは控えていた。中学生になってから、少しずつ、慎重に伝えていったんだ⋯父親がしていたことや、その罪の重さについて。彼女にとって父親のチョコッティは、きっと世界で一番優しい、大好きなパパだった。そのパパが、突然、殺された。昨日まで会えていたのに、突然、二度と会うことが出来なくなった。それまで住んでいた家にも住めなくなり、見たこともない別荘に連れて来られ、"今日から、ここで暮らしなさい"と言われる。そして何年も経ってから、"あなたのパパは、悪いことをしていたんだから、殺されても仕方無いのよ"と説明される。もちろん担当者はそんな風に淡々と説明したわけじゃないが、どんな風に説明されたって、心の中は混乱し、暴風雨だ。大嵐だ。気が狂いそうなほど大きな矛盾を心に抱えて、毎日、泣きながら⋯生きてきたんだ。耐えてきたんだ。何年も心の中の矛盾と戦い続けた彼女は、高校生になり⋯自分の父親を殺した人物の上司である私⋯チョコクラージュは私を守るために爆破を実行したのだから、私が殺したも同然だ。そんな私と会ってもいいと、決断してくれたんだ。なあ⋯プルガル。説明してくれないか?この子のどこに、罪があるんだ?ほんの少しでも罪があるなら、説明してくれよ。私には、この子に罪があるとはどうしても思えない。幼稚園児の女の子が、パパに甘えるのが罪なのか?それが小学生なら罪になるのか?大好きなパパがある日突然殺されて、毎日泣いたら罪になるのか?大好きなパパが悪い人だと教えられて、すぐには受け入れることが出来なくて、毎日泣きながら悩んだら、罪になるのか?⋯プルガル、もし、そうだと言うなら⋯お前は、どれだけ残酷な人間なんだよ。どれだけ、心が無い人間なんだよ。どれだけ、人の痛みが分からない人間なんだよ⋯!」
クララは怒りに震えていましたが、目は潤んでいるように見えました。プルガルは歪んだ表情で、クララを睨みつけていました。少しの沈黙のあと、プルガルはこう言いました。
「このガキは、チョコッティの娘だろうが!その時点で、罪があるんだよ!血の中に、罪が!」
クララはゆっくりと大きく息を吸い込んでから、ゆっくりと吐き出しました。そして無表情でプルガルに近づいて行きました。
「おい!!それ以上来たら、このガキを撃つぞ!!」
プルガルはそう叫びましたが、気迫に押され、クララが目の前に来るまでの短い時間にそれを実行することは出来ませんでした。代わりに銃でクララを殴ろうとしましたが、幼い頃からサッカーで体幹や反射神経を鍛えてきたクララは余裕でそれを躱し、プルガルの顎を思い切りぶん殴りました。そのとき感じた、それまでの人生で感じたことが無いほどの激しい怒りを、全て込めたような強烈な右フックでした。プルガルは「うぐっ」と小さな声を出して、倒れました。顎にヒットしたので脳震盪を起こし、気絶していました。
オティリアは驚いて目をぱちくりさせていましたが、すぐに「チョコレツィカさん!早く逃げて下さい!私の背中に、爆弾があるんです!」と言いました。
「なんだと!?爆弾!?」
「はい!ガムテープで爆弾ごと、ぐるぐる巻きにされているんです!私は!"時限起爆装置のタイマーはもう起動させた、チョコレツィカは多分来ないから、お前と一緒にここで死んでやる"と言っていました」
「⋯⋯!とりあえず、ガムテープを剥がそう!!」
クララは慎重に、オティリアの身体に巻かれたガムテープを剥がし始めました。オティリアの言葉通り、背中の上に乗せられた爆弾らしきものが少しずつ姿を現しました。それは、おそらくステンレスと思われる外箱の中に信管が刺さった爆薬と時限起爆装置が詰め込まれた物でした。ステンレスの外箱には太いワイヤーを通すための穴が開けられており、通されたワイヤーはオティリアの腰に巻き付けられていました。ワイヤーには鍵で施錠・解錠できる接続部があったので、クララは急いでプルガルの着衣に付いている全てのポケットを確認しましたが、鍵は見つかりませんでした。時限起爆装置のタイマーに表示された数字を見ると、爆発まで残り2分でした。
「鍵は無かった。時限起爆装置のタイマーを解除するしか無いな。じゃないと、あと2分で爆発する!」
「⋯チョコレツィカさん⋯お願いです!!逃げて下さい!!私⋯これ以上、チョコレツィカさんに迷惑をかけたくないんです。暫定統治機関で働いていたチョコレツィカさんが離職されたのは、私が毎日泣いていると知らされて、大きなショックを受けたからなんですよね?私の⋯私のせいだったんです!私はそのことを知ったとき⋯そこまで心配してくれるなんて、きっと優しい人なんだろうって、思いました。だけど、本当はそう思っているのに、素直にそれを認められない自分もいて⋯。でも、今は違います。私は、胸を張って言えます。私はチョコレツィカさんのことが大好きです、って。だから、私なんかのために死んで欲しくないんです。死ぬのは、私だけで⋯いいんです。この男の人も言っていたように、私には、悪い血が流れています。こんな悪い血を持つ私は、いなくなった方がいいんです⋯きっと」
オティリアの目には涙が浮かんでいました。クララはポケットから車の鍵を出して、ステンレスの外箱の隙間に突っ込み、こじ開けました。
「オティリア⋯約束してくれ。二度とそんなことは言わない、と。お前は、父親とは別の、独立した一人の人だ。とても優しくて温かい、素敵な女性だ。血に、良い血も悪い血もあるもんか。もし、この世界の全ての人達がお前の血を悪い血だと言っても、私は認めない。お前に流れているのは、お前の血だ。お前だけの血だ。とても素敵な、可愛らしい血だ。そのことを、決して忘れるな⋯オティリア」
クララは真剣な目でオティリアを見ました。爆発まで、残り20秒でした。
「ドルレットのガウンは青だったな。よし、青にするか。オティリア⋯お前と死ねるなら、私は本望だ」
クララはオティリアを強く抱きしめながら、時限起爆装置から伸びている赤と青の銅線のうち、青の方を引き抜きました。
「⋯⋯!」
二人は同時に、ぎゅっと目を閉じました。
「⋯⋯!?」
残り1秒で、起爆装置のタイマーは停止していました。
「⋯チョコレツィカさん⋯!生きてる⋯生きてるよ!私達!!」
オティリアは輝くような笑顔を見せてから、再びクララの胸に顔を埋めました。クララは自分の中にある愛情の全てを込めて、オティリアを抱きしめました。




