第134話 葛藤を越えて
車がチョコフィエルから、チョココウラクエンにあるレツィカドームに向かって出発した後、クララはドルレットに様々な質問をしました。ドルレットがまだブラックカカオの別荘で暮らしていた頃、オティリア達がどんな様子だったのかということや、オティリアの専任担当者であるルミニツァのこと。ドルレットが児童養護施設で働き始めたきっかけや、キックボクシングを始めたきっかけなど⋯。ドルレットはそれらの質問に出来るだけ丁寧に答えていましたが、車がレツィカドームに近づくにつれて、チョコレツィカの口数は減っていきました。オティリア達と対面するときが迫り、彼女は極度に緊張していました。
「すみません⋯コンビニに寄って頂けますか?少し、気分が悪くて⋯」
ドルレットはクララと一緒に車を降り、肩に回した手で彼女の身体を支えながら店の中に入って行きました。クララはトイレで嘔吐し、青ざめた顔で出てきました。
「試合前なのに、迷惑をかけてしまって申し訳ない⋯デチェバル⋯」
「そんなこと気にしないで下さいよ!全然、大丈夫ですから。チョコレツィカさんは、心配し過ぎです。オティリア達は、もう昔とは違います。今の彼女達は、あなたと会うのを楽しみにしているんです。だから、そんなに心配する必要はありません」
ドルレットにそう言われたクララは、しばらく黙ったままドルレットの目を見つめていました。泣き出しそうな目をしていました。
「デチェバル⋯私は⋯私は、オティリア達と対面するときは、最大限の敬意を払って、本当の⋯本物の誠意を持って対面したいと思っていた。だけど私は⋯お前を見たら、自分を抑えられなくなって、抱きついてしまった。キスまでしてしまった⋯。こともあろうに、オティリア達と対面する直前に⋯。私は⋯そんな浮かれた気持ちで⋯彼女達に会うつもりは無かったんだ!私は⋯最低だ」
ドルレットはクララよりずっと年下ですが、まるで優しい父親のような顔で彼女の言葉を聴いていました。そして聴き終えると、彼女に向かってこう言いました。
「チョコレツィカさん。さっきのキスを最低な犯罪行為みたいに言うのはやめて下さいよ!相手があることなんですから。しかも、その相手というのは、僕なんですよ!⋯僕の人生の、宝物みたいな一場面を、二時間も経たないうちに黒歴史みたいに言い出すのはやめて下さい」
「違う、違うんだ⋯!別に後悔しているわけじゃなくて⋯とにかくオティリア達に対して、ものすごく失礼なことをしてしまったと⋯!」
「チョコレツィカさん。まず僕が言いたいのは、あなたは全然、浮かれていません。浮かれている人は、嘔吐して、青ざめた顔で"私は最低だ!"なんて言いませんよ。それのどこが浮かれているんですか。それに、もし多少、浮かれていたとしても、そんなに非難されるようなことですか?チョコレツィカさん⋯僕達は、機械じゃないんです。常に不安定で、揺れ動く、とても弱い心を持って生きている、生き物なんです。時々、理屈に合わないことをしてしまうのは、当たり前なんです。間違えるのも、当たり前なんです。⋯でも、僕はさっきの出来事を"間違い"だなんて、思って欲しくありませんよ!そんな風に思われたら、悲しいですよ⋯」
「⋯そうだよな。ごめんな、ドルレット⋯。あの⋯これだけは言っておくけど⋯私の気持ちに、変わりは無いから」
「え?それって、どういう意味ですか?もっと、はっきり言って下さいよ」
「⋯バカ!言えるわけないだろっ!!」
ドルレットは笑いました。そして真面目な顔に戻って、こう言いました。
「もしオティリア達が、僕とチョコレツィカさんが恋仲になったのを知ったら、きっと喜ぶと思いますよ」
「⋯え?どうしてそう思うんだ?」
「僕達は、とても悪いことをしてきた人達の子供です。そういう極悪人の子供として、生まれてしまった。だから僕達にとって、自分自身を肯定して生きていくことは、ものすごく努力を要することなんです。どうしたって、ものすごい自己嫌悪と、自己否定から始まってしまいますから。僕やレオンテには、チョコレツィカさんがいた。オティリアには、ルミニツァさんという素晴らしい担当者がいた。コドリナさんやマリオアラさんにも、素晴らしい専任の担当者がいました。だから僕達は、進む方向を間違えずに済んだのです。もしチョコレツィカさんと出会えていなかったら⋯もし革命のあと投獄されて、拷問されたり、ひどい扱いを受けたりしていたら⋯"俺の父親のやっていたことは正しかった!いつか、こいつらに復讐してやる。父親のような独裁者に、俺もなって、復讐してやる!"なんて、考えるようになっていたかも知れません。でも、そうはならなかった。チョコレツィカさんや、ルミニツァさんのような人達と出会えたからです。正しさを押し付けるのではなく、正しさとは何なのか、背中で教えてくれる人達と、出会えたからです。僕達のために必死に頑張る、背中で。だけど、それでも僕達の中には、劣等感が残っています。"悪者の子供なんだ"という劣等感です。チョコレツィカさんのご両親は、レジスタンスだった。独裁者に立ち向かう、レジスタンス⋯僕達から見れば、"正義のヒーローの子供"なんですよ、チョコレツィカさんは。自分達とは真逆です。羨ましい存在なんです。僕達の心の中には常に、"キラキラしたヒーロー側の人達は、僕達のことを本当はどう思っているんだろう。綺麗事を言っていても、心の中では見下して、軽蔑しているんじゃないか"という不安があるんです。だから、チョコレツィカさんが僕と恋仲になったことを知ったら、きっとオティリア達は喜びます。正義側の人達の中に、裏表が無い人がいるんだという、ひとつの証拠になるからです。"悪人の子供"という色眼鏡で見られることなく、独立した一人の人として見てもらえることもあるんだという、実例になるからです」
クララはドルレットの目を見つめ続けていました。ドルレットやオティリア達がこれまで、どれほど大きな葛藤を乗り越えてきたのか、どれほど荒れ狂う矛盾の海を泳いできたのかを想像すると、胸が締め付けられました。
「デチェバル⋯」
「はい」
「お前なら分かっていると思うが、正義というのは、しっかりした定義があり、常に定まっているようなものじゃない。常に相対的なものであり、主観的なものだ。だから私がお前を"人"として見ているのと同じように、お前も私のことは、揺れ動くただの"人"として見てくれ。正義と悪みたいな二元論の中で見ないようにしてくれ。私はお前に、正義だと思われたいわけじゃない。ただの⋯ただの女性だと、思われたいんだ⋯」
ドルレットは返事をする代わりに、まだ不安そうな目をしているクララを、優しく抱きしめました。
「チョコレツィカさん⋯信じて下さい。僕は、あなたが正義だから愛しているわけじゃない。僕が愛しているのは正義じゃなくて、あなたなんです。揺れ動き、ときには間違ったこともしてしまう⋯あなたなんです」




