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第132話 抱擁

 翌日、クララは午前7時に起床しました。カーテンを開けると、外は曇ひとつ無い快晴でした。シャワーを浴び、朝食のチョコパンを食べてから彼女は、白いTシャツにチョコリーバイスのウエスタンシャツとデニムパンツという服装で電車に乗り三つ目の駅で降りました。その駅の近くには小さな図書館があり、クララはしばしば訪れていました。祝日ということもあり人の数はいつもより多めでしたが、騒々しいということは無く、それなりに静かでした。

 クララはお目当てのD.H.チョコロレンスの詩集を手に取り、キャレル席と呼ばれるパーテーションの付いた席やテーブル席ではなく、ゆったり座れる一人掛けのソファ席に座りました。

"な⋯なんてラッキーなんだ!この席が空いているとは⋯!この席はゆったり座れて、チョコロレンスの世界にどっぷり浸れる、最高の席なんだよ!"

 彼女はチョコロレンスの詩集を所有しているのですが、未発表の詩が収録されている希少な本がその図書館にはあり、彼女はいつもそれを読みに来ていました。その本はとても希少なので、借りて持ち帰ることは出来ないのです。

 彼女は詩を読む合間にしばしば、オティリア達のことや、ドルレットのこと、チョコクラージュのことを考えました。昼過ぎに帰宅し、ソファでテレビを観ているうちに、うとうとしてきて、いつの間にか眠りに落ちていました。

 彼女は、不思議な夢を見ました。場所はクララが小学生だったとき、よくサッカーをしていた小学校の校庭で、彼女自身も小学生に戻っていました。

 彼女は、次々に襲いかかってくる相手チームの選手を巧みに躱(かわ)しながら、一心不乱にドリブルをしていました。彼女にぴったり寄り添うように、チョコクラージュが並走していました。何故かチョコクラージュはサッカーのユニフォームではなく、スーツを着ていました。クララは小学生なのに、チョコクラージュは副大臣を務めていたときの、大人のチョコクラージュなのです。

 彼はパスを求めたりせず、ボールを奪いに来るわけでもなく、ただ真剣な顔で前を見て走っていました。そして時々、彼女の方に顔を向けるのです。そのときも表情は崩さず、真剣な顔をしていました。クララは夢の中で、"このチョコクラージュは大人だし、この試合に参加しているわけでは無さそうだ。よし、私が一人でシュートを決めてみせる!"と思いました。

 小学生のときフォワードだったクララは、夢の中でも鋭い目つきでゴールを狙っていました。横をちらっと見たとき、チョコクラージュが口を開き、何か言ったように見えました。「えっ!?なに?」クララはドリブルを続けながら、大きな声で訊きました。「⋯来ているぞ!」⋯「えっ?聴こえない!」⋯「チョコレツィカ⋯ディフェンダーが迫って来ているぞ!よく見ろ!」「えっ⋯!?」

 チョコクラージュの言う通り、右と真正面からディフェンダーが迫って来ていました。"突破してやる、一人で、決めてみせる⋯!"そう思った瞬間、横にいたチョコクラージュの姿が見えなくなり、彼の声だけが聴こえてきました。「何をしているんだ、!一人じゃ無理だ!お前は、一人でサッカーをしているのか!?」クララは腹が立って、言い返しました。「違うけど⋯大丈夫だもん!一人で、決められるもん!」「ダメだ、チョコレツィカ!信じろ!信じるんだ!」「え!?信じるって、何を⋯!?」「決まってるだろ!仲間だ。お前の仲間だ!周りを見ろ!お前には、温かい仲間がたくさんいるだろ!」

 クララは、ゴールまであと20メートルほどのところでボールを止め、素早く周りを見回しました。チョコクラージュが発した言葉は、嘘ではありませんでした。クララと同じ真紅のユニフォームを着ている仲間達が、様々な方向からクララを見てくれていました。驚いたことに、その仲間というのは、ダリア、アドリアン、トシヒコ、レオンテ、チョコアデバル、デチェバル、クララの両親、そして両親が収容所に送られたあとクララを育ててくれたディマ夫妻でした。「えっ!?みんな年齢も性別もバラバラなのに、同じチームなのっ!?」クララがそう言うと、真後ろから「年齢も性別も関係無い!みんな、お前の味方だ!お前の、仲間だ!」と、チョコクラージュの叫ぶ声が聴こえました。「うん!分かった!」クララはそう返事をして、後方にいたダリアに力強いパスを出しました。ダリアは逆サイドにいたレオンテに繋ぎ、レオンテはゴール前にいたデチェバルに高めのパスを出しました。そのボールをデチェバルはトラップせずに直接、ゴールに突き刺しました。見事なダイレクトボレーシュートでした。デチェバルは飛び跳ねて喜び、「チョコレツィカさん!やりました!!」とクララに向かって叫びました。「よし!よくやったぞ、デチェバル⋯!やった、やったよ⋯!チョコクラージュ⋯!!」クララはそう叫んで、後ろを振り返りました。チョコクラージュは、チョコレツィカへの深い愛情に満ちた、限りなく優しい笑顔で、静かに二回、ゆっくりと頷きました。彼の瞳は光を受けてきらきらと輝き、涙ぐんでいるように見えました。クララは彼に抱きつくために、勢いよく走り出しました。しかし近づくにつれてチョコクラージュはきらきらした、まばゆい光に包まれていき、そのまま、消えてしまいました。「チョコクラージュが、消えちゃった⋯!嫌だ⋯嫌だよ⋯!」そう叫んで再びゴールの方を見ると、さっきまでそこにいた仲間達も、みんな消えていました。

「みんな⋯!!どこに行っちゃったの!?みんな⋯!!嫌だよ⋯私だけ置いてけぼりにしちゃ、嫌だよ⋯!!」

 クララは泣き叫びました。


 クララは弾かれたように、目を覚ましました。心臓がバクバクして、額には汗が、目には涙が浮かんでいました。

"ゆ⋯夢⋯だったのか⋯"

 彼女はしばらくの間、放心状態でテレビの画面を見つめていました。やがて気持ちが落ち着いてきて、時計を見ると、午後3時でした。

"待ち合わせまで、あと一時間か⋯"

 クララはもう一度シャワーを浴び、再びチョコパンを食べてから、きちんとアイロンをかけてある白いブラウスと、チャコールグレーのパンツスーツを着ました。オティリア達と対面するのだから、カジュアルな服装では駄目だと彼女は考えていました。

 待ち合わせ時刻の15分前にクララは家を出て、待ち合わせ場所である、クイブル・デ・チョーリの前に向かいました。歩いているとき、クララはさっきの夢のことを思い出していました。だんだん不安な気持ちになってきて、とても心細く感じました。

"こんなとき、隣にデチェバルがいてくれたらなぁ⋯"

 思わずクララは、そんなことを考えてしまいました。小さな書店のある角を曲がり、遠くにクイブル・デ・チョーリが見えるところまで来ました。クイブル・デ・チョーリの前に、とても大きな高級車が停められているのが見えました。

"あれか⋯ディニクという人は、本当にお金持ちなんだな⋯。私も早めに家を出たし、まだ待ち合わせの時刻にはなっていないが、待たせてしまったようだな⋯"

 そう考えた直後、クララはあることに気づきました。その高級車のすぐそばに、ジャージを着て立っている若い男がおり、その男が、これまでにテレビや商店街のパブリックビューイング、チョコ浜アリーナで見てきたドルレットにそっくりなのです。

 クララは立ち止まり、携帯電話をポケットから取り出しました。そしてドルレットにチョコラインでメッセージを送りました。


『デチェバル、お前⋯もしかして、来てる?』


 建物の陰に隠れ、遠くからジャージ男を観察していると、彼は少し慌てた様子でポケットから携帯電話を取り出し、画面を見てから、キョロキョロと周りを見回していました。


"やっぱりあれ、デチェバルじゃん!!"


 ジャージ男は携帯電話をいじっていました。メッセージを打ち込んでいるのだな、と思っていると、案の定、メッセージが届きました。


『チョコレツィカさん、どこから見てるんですか!?少しでも早く会いたいなと思って、"チョコレツィカさんを迎えに行く車に、僕も乗せてもらっていいですか?"とディニクさんにお願いしたんです。"試合直前なのに、大丈夫なのか!?"って、呆れていましたけど、今からレツィカドームに向かえばバンテージチェックも余裕で間に合うので、大丈夫です。驚かせようと思っていたんですけど、バレちゃいましたね!お誕生日、おめでとうございます。チョコレツィカさん!』


 クララは建物の陰から出てきて、ゆっくりとドルレットの方に歩き始めました。彼は顔を逆方向に向けていて、気づいていませんでした。あと20メートルのところまで来たとき、ドルレットはやっとクララに気づきました。彼は笑顔で、クララに向かって礼儀正しく頭を下げました。夢の中で見たチョコクラージュの笑顔に負けないくらい、優しい、どこまでも優しい笑顔でした。クララが面談で始めて彼に会ったときと、全く同じ笑顔でした。クララは一秒でも早く彼の胸に飛び込みたい気持ちになり、駆け出しました。彼は一瞬、驚いた顔をしましたが、飛び込んできたクララを両腕でしっかりと抱きしめました。その瞬間、クララが両親を失ってから抱え続けてきた圧倒的な孤独と寂寞(せきばく)が、激しい水流のようにドルレットの心に伝わってきました。"この細く小さな身体で、この人は今までずっと、戦い続けてきたんだ⋯大好きなお父さんとお母さんを失った悲しみや、心の支えになっていたチョコクラージュさんまで失った絶望と⋯。この人が草案を作った憲法によって、国民は基本的人権を保障され、街を歩けば、幸せそうな家族連れや、恋人達をいくらでも目にすることが出来るようになった。それなのにこの人は、こんな縁もゆかりも無い街の片隅で、一人で孤独と戦い続けてきたんだ⋯"ドルレットはそう思いました。

"この人は、俺が幸せにする。これからは俺が守っていく⋯この人の心を"

 ドルレットは、クララを抱きしめた両腕に、更に力を込めました。

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