第129話 矛盾の海
「会えることになった、ってことは、今までは会うことを拒まれてたのか?」
トシヒコにそう訊かれたクララは、「いや⋯そういう訳じゃない。むしろ向こうは私のこと探していて、私が身を隠していた感じだな」と答えました。
「え!?それなのに、"会えることになった"って喜んでいるのか?なんか、おかしくないか⋯それ」
クララはトシヒコに指摘されて初めて、"確かに、めちゃくちゃ変だ!"と気づきました。
「そ⋯そうなんだよ。変なんだ。変なんだけど⋯何故か、そういうことになったんだ。自分から離れていったくせに、私は、また会えることになって、嬉しいと思ってしまっているんだ。やっぱりアホだよな、私って⋯アハハハ!」
クララは自嘲するように笑って、ギムレットをひとくち飲みました。
「クララ、お前はアホなんかじゃねえよ。人間ってのは、矛盾に矛盾を積み重ねて、矛盾の海の中を必死に泳いで生きていく⋯そういうもんだ」
トシヒコの言葉でクララが思い浮かべたのは、オティリア、コドリナ、マリオアラのことでした。"三人に対する自分の気持ちは、まさに矛盾そのものだ"と思いました。三人の前に立って向き合うことへの恐れは、ものすごくある。私が三人から父親を奪ったも同然なのだから。でも⋯会えることになって嬉しい気持ちも、ものすごくある。そして、それは、"会って和解すれば、今まで背負い続けてきた重荷、精神的苦痛から解放されるから"というような嬉しさではない。決して、そんな嬉しさではない。じゃあ、どうして私は嬉しいのだろう?何が嬉しいのだろう⋯?クララは考えてみましたが、その答えはよく分かりませんでした。
クララはオティリア達と自分との関係、これまでの経緯をトシヒコに洗いざらい話して、トシヒコの意見を聞いてみたいと思ったことが、これまでに何度もありました。しかしその話をするとなると、必然的に、チョコクラージュが大統領官邸ブラックハウスを爆破した件について説明することになり、元々それはクララが実行するつもりだったことや、爆破によってオティリア達の父親は全員死亡し、彼女達から面会を拒絶されていたことなど、極めて重い話をすることになるので、クララは"他のお客さんもいるし、酒場でする話ではない"と考えて、控えていました。
「ドルレットとの関係でいうと、離れていったのは私の方なんだが、他にも私には、どうしても守りたいと思っている女の子がいるんだ、三人⋯。その子達からは、会うことを拒絶されていたんだ。でも明日、会えることになった。詳しいことは話せないんだが⋯なあ、トシヒコ。会うのが怖いのに、会いたい⋯誰かに対して、そんな風に思ったこと、あるか?」
「もちろん、あるさ。そんなのは、矛盾の海の中でも、特によくある矛盾のうちのひとつさ。例えば、子供の頃⋯何か悪いことをしてしまって、家に帰ったら、お母さんに怒られると分かっている状況。怒られるから、会いたくない。でも、大好きなお母さんだから、本当は抱きしめてもらいたい。そういうことって、あるだろ?子供の頃から、既に矛盾の海は始まっているのさ」
矛盾の海⋯デチェバル、レオンテ、オティリア、コドリナ、マリオアラ⋯五人が今まで泳ぎ続けてきた矛盾の海は、おそろしく波が荒れ狂った"矛盾の海"だったに違いない⋯クララはそう思いました。
"赤ん坊の頃から、抱っこしてくれていた父親。誕生日になると、笑顔でプレゼントを手渡してくれた父親。その父親がたくさんの人々を殺していると知ったときの苦しさは、想像を絶するものだろう⋯。私は中学生だったときに両親を独裁者によって奪われ、独裁者に怒りの鉄槌を下すことと、人権が保障された、民主主義の国を作り上げることを目指して生きてきた。苦しかったし、大変だったが、オティリア達のように、親に対する気持ちの部分で、巨大な矛盾を抱えたことは無い。私にとって両親は、常に100%大好きでいられる存在、非難すべき部分が見つからない存在だった。しかしオティリア達は、大好きだと叫びたいのに、澄み切った気持ちでそう叫ぶことが出来ない状況に立たされてしまった。優しく微笑んでいた父親が、数え切れないほどの人達を、地獄のような苦しみ、悲しみの中に突き落としていたという事実と、向き合わなければいけなくなった。その矛盾の海で溺れていた彼女達は、どれだけ苦しかっただろう。どれだけ涙を流しただろう。⋯私は、その荒波の中を生き抜いてきた彼女達に最大限の敬意を持って、向き合わなければならない。嘘偽りの無い自分で、向き合わなければならない⋯"
今の自分がすべきことは、ただ静かに明日を待つことだと分かっていたはずのクララでしたが、どうしても、オティリア達について様々なことを考えてしまいました。店に入ってきた時と比べてクララの表情が曇っていることに気づいたトシヒコは、真面目な顔でクララにこう言いました。
「クララ!お前は明日、ドルレット君に会えるのが嬉しいんだろう?だったら難しいことは考えずに、今夜は笑顔で飲めばいい。お前は、全人類の苦しみを一人で背負おうとするようなところがある。それは、お前の悪い癖だ。お前は、もっと自分自身に優しくしろ。いたわってやれ。そうじゃないと、お前が可哀想だよ。悩みがあるならいくらでも聞いてやる。だけど俺が一番見たいのは、お前がうつむいて悩んでいる顔じゃない。幸せそうにしている笑顔なんだ。それを忘れるなよ」
顔を上げてトシヒコの顔を見たクララの目に、涙が溢れてきました。両親は死んでしまった。チョコクラージュも死んでしまった。だけどまだ、私に優しさをくれる人がいる。そういう温かい人がいる⋯。私はまだ、生きていけるかも知れない⋯クララはそう、思いました。




