第109話 無限の空へ
「青コーナー⋯ひゃくろくじゅうろくぅてぇ〜〜〜〜〜ん⋯よんパウ〜〜ンズ⋯⋯⋯ドルレッ⋯⋯トォ〜〜〜〜〜⋯・レェ〜〜〜〜〜〜〜〜⋯ツィ〜〜〜〜ッ!」
リングアナウンサーが叫び、ドルレットは拳を高く挙げました。表情は落ち着きを取り戻しており、『チョコ猫ふんじゃった』事件の後遺症は無いように見受けられました。
コーナーに戻って来たドルレットの口にマリウスはマウスピースを突っ込み、「必ず勝てる。自分を信じろ。いいな?」と言いました。ドルレットは完全にスイッチが入った目で、力強く頷きました。
控え室でドルレットが皆に向かって感謝の言葉を述べたとき、マリウスは初めて、ドルレットがかつてチョコの国を支配していた残虐非道な独裁者、ブラックカカオの実の子供であることを知りました。マリウスはもちろん驚きましたが、それについてドルレットに何か言うことはありませんでした。ドルレットが誰の子供であろうと関係無い。ドルレットがドルレットであることに変わりはない。今までと何も変わらない。マリウスはそう思っていました。
「⋯続きまして、赤コーナー⋯⋯ひゃくろくじゅうろくぅてぇ〜〜〜〜〜ん⋯にパウ〜〜ンズ⋯⋯⋯セルバァ〜〜〜〜〜ン⋯・コドレェ〜〜〜〜〜〜ア〜〜〜〜〜ヌゥ〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
コドレアヌも拳を突き上げ、観客に己の存在を示しました。
試合開始のゴングが鳴り響き、戦いに勝つために自分を鍛え上げてきた二人の男がリング上で対峙しました。
コドレアヌはぐいぐい前に出てきて、距離を詰めてきました。それはドルレットが予想していたことでした。コドレアヌは首相撲とティーカオが得意ですし、ドルレットは離れた位置からの膝蹴りやハイキックを得意としているので、距離を詰めることはコドレアヌにとっては攻守どちらにおいても有利に働くのです。
ドルレットは距離を取りたいので、ジャブ気味の前蹴りを繰り返し出して、寄ってくるコドレアヌを必死に突き放そうとしていました。「こっちくんな!」という感じです。それと並行して、ドルレットはローキックも頻繁に出しました。ローキックは、相手を突き放す効果もありますし、同時に少しずつ相手の脚にダメージを蓄積させていくことが出来るので、一石二鳥なわけです。
サッカー出身でパンチよりもキックに威力があるドルレットのローキックを何発か食らった時点でコドレアヌは、"ヤバい。こいつのローキック、めちゃくちゃ重いし、めちゃくちゃ痛い!"と思いました。"こんなの食らい続けていたら、とてもじゃないが脚がもたない"そう思ったコドレアヌは、バックステップとサイドステップを使って距離を取りながらドルレットの周りを回り始めました。回りながら、"どうやって攻めればいいんだ⋯くそっ!"と、悩んでいました。
「ドルレットさん、かなり、いい感じじゃないですか!?」
クララの隣で観戦していたアドリアンが高揚した声で言いました。
「確かにいい感じだが⋯油断は禁物だ。アドリアン、法の下の平等は憲法何条だ?」
問題を出していても、クララの視線はリング上のドルレットに固定されていました。
「えっ!?ええと⋯じゅ、14条ですっ!!」
逃げ回るコドレアヌの動きが一瞬、鈍くなりました。
「集会、結社及び表現の自由は?」
ドルレットがハイキックを出しましたが、間一髪のところでコドレアヌは躱しました。
「に⋯21条っ!!」
アドリアンも、答えながらドルレットを凝視していました。コドレアヌは躱した勢いでバランスを崩し、身体が前に傾きました。
「憲法19条は何についての規定だ?」
「⋯思想及び良心の自由!」
アドリアンが答えたのと同時に、ドルレットのテンカオが、前傾姿勢になったコドレアヌの顎に突き刺さりました。
クララとアドリアンは、同時に「よしっ!!」と叫びました。コドレアヌは、ダウンしました。クララとアドリアンはようやく顔を横に向け、互いの顔を見ました。
「正解だ、アドリアン。⋯何を信じ、何を愛するのか。何を軽蔑し、何に反対するのか。どんな政治、どんな経済を望むのか。人に託すのか、自分が政治家を目指すのか。法律家を目指すのか。芸術家を目指すのか。何に喜び、どんな夢を見て、どんな空想をするのか。人は生まれながらにして、自分の心で、自由にそれを決める権利を持っている。それを他人に制限されたり、妨害されることがあってはならない。独裁者がいなくなり、時が流れると、人は必ず、そういう心の自由の大切さを忘れて、あって当たり前のものだと考えるようになってしまう。そういう自由を手にしている幸せを、意識しなくなる。やがて、その存在自体を忘れてしまう。アドリアン⋯お前は決して、忘れるな。民主主義の根幹は"一人ひとりの心が自由である"ということなんだ。だから『思想及び良心の自由』は、『表現の自由』と違って、"公共の福祉に反しない限り"という制約すら受けない。どんなに辛いときでも、お前の心の中だけは、絶対的に自由なんだ。その自由があればお前はいつでも翼を広げて、無限に広い大空に⋯アンネ・フランクが隠れ家の小さな窓から見た、あの空に⋯羽ばたいていけるんだ。アンネは羽ばたいて、あの日記や、たくさんの物語を書いた。その大切な心の自由、羽ばたくための自由を、不断の努力で守っていく義務を負っているのが国民なんだ。⋯お前は、守っていけるか?アドリアン」
「は⋯はいっ!!」
アドリアンがそう答えたとき、既にレフェリーはテンカウントを終えており、ドルレットは勝者となっていました。クララは、汗できらきらと輝くドルレットの顔に視線を移しました。ドルレットは倒れたコドレアヌのそばで膝をついて、心配そうに何か語りかけていました。その顔はクララがブラックカカオの別荘で幾度となく目にしてきた、他人を心から思いやる、優しいデチェバルの顔でした。
"デチェバル⋯お前の心も、自由だ。お前は運命に縛られてなど、いない。誰の子供であろうと、関係無い。お前は、お前だ。お前の心は、お前だけのものだ"




