第61話 ☃☆
「どのみち、お前の命もそう長くはあるまい。死ねば、いずれは我が息子のものとなる。」
伯爵は、怒りを押し殺しながら、歯の間から言葉を絞り出した。
「王家との取り決めの条件は――息子の継承権を放棄すること。私の死後、領地は王家に帰属する」
夫人は決意のこもった眼差しで言い返した。
「お前のその病が……治るはずがない。そんな奇跡、あり得るはずがないんだ……お前の病は、なぜ治った……そんなはずはない。」
(この城の全てを把握していたってこと。何より重要なのは、この数日ですでに条件を取り決めていたこと。夫人はあの地下空間のことも当然知っていたよ!
ここで馬鹿正直に這いずり回って捜査してたのは私だけで……
それを切り札にして、権力争いに利用し、子どもたちのことはどうでもいいの?)
「まさか……あの娘が――!!」
心の中で呟いていたアスタリアは、その突然の大喝にハッとまぶたを跳ね上げた。
それまで平静を保っていた伯爵が、狂ったようにアスタリアへ飛びかかってきた。
まるで瀕死の獣が、最後の一切れの肉を見つけたかのように。
(あっ)アスタリアは野生の勘で咄嗟に反応する。手がルーカスの腰の剣へ伸びかけ――「ダメだ、それは上司だ!」と脳内の理性が叫んだ。
間一髪、ルーカスの背中が突然視界を遮った。
ドンッ!前に立ったルーカスは、風のような速さで、抜刀すらせず鞘の一撃で伯爵を床へ叩き伏せた。
「ゴホッ、ゴホッ」と、静まり返った大広間に、伯爵の苦しげな呼吸と、絶え間ない咳の音だけが不気味に木霊する。
それを打ち破るように、夫人の冷ややかな声が落ちた。
「フフ、あなたが渇望していたものが、目の前にあるというのにね」
ここで、ルーカスは優しい口調に切り替え、小声でアスタリアに言った。
「私の後ろから、出ないでいただけるか。」
(え?上司の肩越しの狙撃席から見物してても、別に同じよ?)
眼前の伯爵の目つきが、にわかに異様になった。
入り混じる激怒の底に潜む、純粋な「渇望」。
――その禍々しい視線が、真っ直ぐに私へと向けられている。
「お前たちは……自分が、誰に手を出したか分かっていないな……!私には王家直属の後ろ盾がいる!たかが一騎士団の副団長風情が……この私に気安く触るな!」
(……えと、これでレベッカが辞職して逃げるんじゃなくて、今度はルーカスが辞職して夜逃げする番?)
アスタリアはルーカスの肩越しにこっそりと様子を窺った。ルーカスは変わらず泰然とした表情を保っている。
夫人も周囲の者たちもまた、微塵も動じてはいなかった。
「女王陛下の正式な許可なくして、私のような上級貴族を拘束できると思うな!それには明確な権限が必要だ!」
地を離れぬまま、伯爵は全身を震わせながら、椅子の肘掛けを全身の力を込めて握り締め、告げた。
「私には女王陛下からの委任状がある。女王陛下に代わり、すべての王権を行使できる。即ち――私のもう一つの身分は、女王陛下代理特別執行官だ。」
ルーカスは、女王陛下の認可を示す委任状を掲げた。黄金で造られた盾を模した、王家の章牌だった。その表面には女王陛下の紋章と、交差する二振りの剣の意匠が施され、凄まじい存在感を放っている。
ルーカスは淡々と続けた。
「事の結末は以上だ。私はただ、決定事項を伝えに来たに過ぎない。この後、王家直属の騎士たちが到着し、あなたたちの身柄を引き受ける。」
「ゼェ、ゴホッ」と、伯爵は突然床に鮮血を吐き散らした。
その時、家令が混乱に乗じて城の正門を開け、外へと逃亡を図ろうとした。
重々しい音を立てて城門が開いていく。
その隙間から現れたのは――
武装を施した一人の女戦士と、漆黒の駿馬だった。
「ハロー。ロビンだ。ちぇ、私の取り分は、この獲物一匹だけ?」
身の丈ほどもある大剣をやすやすと肩に担ぎ、不敵にニヤリと笑った。
その後、大広間の扉の前で、一瞬カッと光が弾けた。
大太鼓を打ち鳴らしたかのような、腹の底まで響く低音が轟いた。
「ロビン、ただいま報告に参上しました。」
それは、見上げるほどの長身を誇る女騎士と――
まるで鶏でも掴むかのように、片手で軽々と襟首を吊り上げられている男――仕立ての良い服を纏った家令だ。
アスタリアが小声で言った。
「ルーカス様、レベッカのところへ行きたいです。」
「分かった。僕の白馬を使ってくれ。正門外にいる。その方が速い。」
「ありがとう。」
(ヨナは、もう馬車で子どもたちをエスダロスへ送ったはず。その後はレベッカとヴァイオレット、リリーが引き継ぐのかな。)
私のもう一つの「顔」は、医師のアスタリア。
私の魔法は肉体の傷を瞬時に癒せても、心の深手を治療することはできない。トラウマを癒やす知識なら、私も少しは知っている。
エスダロス方面では、ヴィオラが書類や謀略、戦闘を担当していて、レベッカは村人との交渉や現場を走り回る役。リリーは実働と図面作成を担当しているのかな。
そう考えると、アスタリアの胸の奥に、温かなものが広がった。
私もレベッカと一緒に行って、その子どもたちの家族に、トラウマを抱えた子どもたちへの接し方や心のケアに関する知識を少しでも伝えられるかもしれない。
今の私にできることは、たぶんそれだ。
アスタリアは白馬に跨ると、光の中を、エスダロスへ向けて疾走していった。
✧ ✧ ✧
その頃、ヨナは国境の関所に到着していた。ところが、予想外の事態が起きたため、関所の兵士たちは通行を禁じていたのだ。
「――たった今、領主様の使いが来て通達したんです。エスダロスの通行は一切禁止、と。ここで待っていてください、封鎖が解除されるのは、領主様の使いから知らせが届いてからです」
任務をこなす関所兵がそう告げる。
「領主様の使いってどこ――?」
「ほら、あそこですよ」
ヨナが視線を向けると、そこにいたのは領主の使いだった。
角笛を吹き鳴らすと同時に人を送り、ここへ伝令を届けさせていたのだ。
あえて狼煙を使わなかったのは、目立たないようにするためだった。
そんな折、エスダロスの側からはわらわらと大勢の人々が押し寄せてきた。
パカパカと蹄の音、駆け足の響きが大地を揺らし、舞い上がる砂埃を伴う。
先頭を切るのはレベッカ、そして年老いてなお矍鑠たる老将を思わせるヴィオラだ。
ヴィオラは月毛の馬に跨りながら、その腕に浅黒い肌の女の子を抱きかかえていた。
その後ろには、馬に乗った者たち、馬に乗らず鍬を手にした民衆が続いていた。リリーもその中にいた。そして、見覚えのある顔もいくつかある――あの日、アスタリアがエスダロス国内で出会った者たちだ。
関所の兵士たちの注意がそちらへ引きつけられ、眉をひそめながらどうしたものかと困り果てていた――その時。
ガシャン!
大きな音に関所の兵士が振り返る。
領主の兵士は目を虚ろにしたまま力なく崩れ落ち、その背後に現れたのは――大きな鉄スコップを手にしたヨナだった。
「領主様の使いさん、サボりに行っちゃいましたよー。封鎖は解除でーす」
「………………」
関所の兵士は数秒間固まった後、それ以上は何も聞かずに頷き、呟いた。
「あ、はいはい。そういうことね、そういうことね」
その頃、遠くから一人の騎士が必死に駆けてきていた。遠目にその光景を見た彼女は、走りながらぶつぶつと愚痴をこぼす。
「はあ……鎧脱いで走ってきたけど、もうクッタクタだよ。これじゃまたあたしヴィヴィアンの出番、なしってことだよね」
「この前ルーカス殿に『こっそりアスタリアを護衛してて』って言われたのに、アスタリアってば足速すぎて行方不明になるし。さっきは『階段のところで弓兵をつけて、何かあったら出て』って言われたのに、弓兵そもそも階段上ってこないし。で、今度は『関所の様子を見てこい』って。
城門の外に馬はあるのに、『その白馬乗っちゃダメ』とか。足が遅くて、見せ場まで逃したし」
ヴィヴィアンは遠い空を見上げる。
「あたし、いつになったら出世できるのよ――!?」




