第55話 ☃⚔
朝、予定通りウィンストン伯爵は、ルーカスと息子を連れて狩りへ出かけた。
朝食を終えるや否や出発した。代わりにサーベルが城へ到着した。これから約100名に及ぶ領地の騎士たちを鍛え上げるためだ。
自室の窓から、伯爵の部屋へ侵入する算段を立てていた。――けれど。窓から視線を上げた瞬間、違和感に気づく。
今日に限って、望楼に見張りがいる!
(伯爵の手配だろう。)
だが、アスタリアの知らないところで、黒ずくめの家令が彼女の部屋へと着実に足を進めていた。
同時刻、ルーカスの方では――
三人と従者二人が馬を駆っていた。その最中、不意にウィンストン伯爵が手綱を引き、馬を止めた。
ウィンストン伯爵は、どういうわけか、なんとも言えない胸騒ぎを覚えていた。
他の者たちも訝しげに馬を止める。
「ルーカス様、ジャック。私は少し森の奥へ入ってくる。多少時間がかかるかもしれん。先に行ってください。
ジャック、お前がルーカス様をお連れしろ。馬を休ませる水場へ。」
「承知しました、父上」
ジャックの瞳が、一瞬妖しく光った。伯爵からの合図だと悟り、ルーカスに向き直った。
「参りましょう。ルーカス殿」
(……厄介なことになったな)とルーカスは思ったが、進むしかない。わざと速度を緩め――
だが、水飲み場は予想外に近かった。
「ここで馬に水を飲ませましょう」
そう言って、ジャックが馬を下りる。
ルーカスはしばらくウィンストン伯爵を待っているように装うつもりで、仕方なく先に下馬して馬に水をやった。
ジャックはルーカスが馬に視線を向けた隙を突いて、ひそかに石を一つ、茂みの中へ投げ入れた。
――不吉な振動と、異様な羽音が空気を震わせる。
黒い塊のような何かの群れが、猛烈な勢いで茂みから湧き出す!
「ヒヒィーンッ!」パニックに陥った馬たちが前脚を高く跳ね上げ、狂ったように暴れ出す。他の馬もつられるように怯え、次々と暴走する!
「蜂だ!」
従者たちは真っ先に逃げ出した。
ルーカスは常軌を逸した反応で、シュタッ!と、怯えて暴れる自分の白馬の背に軽々と飛び乗った。普通なら絶対にできない芸当だった。
「伯爵を探しに戻る!」
そう言うなり、風魔法でさりげなくスズメバチの群れを抑え込み、誰の返事も待たずに城へ向けて疾走した。背後で暴れる馬たちにも、置き去りにされたジャックにも、一切気にせず。
その頃、ウィンストン伯爵もまた、一足先に城へ向かって全速力で馬を駆っていた。
一方、朝一番に見張り塔に人がいることを発見したアスタリアはベリルに指示を出し、見張り塔の兵士の注意を逸らさせた。
兵士の視線が逸れたほんの隙に、アスタリアは窓から跳躍し、素早く伯爵の部屋の窓へ突進し、飛び込んだ。
ひやりとする瞬間ではあったが、魔法による解錠にはもうすっかり慣れていて、動きは淀みなかった。
問題は伯爵の部屋にある隠し扉。
自分で描いた見取り図をもとに、隠し扉があるはずの位置まで来た。
そこは伯爵の部屋に隣接する、物置代わりの小部屋だった。
(どうやって開けようかな……)
アスタリアは片手を壁に当て、レーダーで壁の向こうを探りつつ、肉眼でも壁の継ぎ目を丹念に調べていく。
(重い扉なら、配重から扉へ力を伝える仕組みがどこかにあるはず……もし回転式の扉なら、床にも痕跡が残っている?)
アスタリアは地面に敷かれた絨毯をそっとめくった。絨毯に隠れていた床に、弧を描くような擦れた跡が残っていた。
隠し扉の正体は――この物置の本棚だ。
レーダーで壁の向こうを確認すると、重い扉を動かすための配重装置がある。その位置から逆算すれば、この側のどこかに仕掛けがあるはず――
その本棚には、他の本よりも妙に表面が滑らかで、埃の少ない一冊の本があった。
仕掛けを回すと、隠し扉が開いた。ルビーが先導し、足早に曲がりくねった狭い石段を下りていく。
二つ目の隠し扉を開いた瞬間、異様な匂いが鼻を突き、胸がきゅっと締め付けられた。
曲がり角を曲がると、視界いっぱいに思いのほか広い地下空間。中央には円形の石台があり、その上に一冊の本が置かれている。その周囲には、柵のついた独房が放射状に並び、円形の祭壇を取り囲んでいた。
薄暗い牢の中には、子どもたちがいた――みな生きてはいるが、どこかぐったりとした様子だった。
「あなたたちを助けに来たの。もうすぐ家族に会えるよ。」
アスタリアは鍵を持っていない。独房を一つ一つ回りながら、優しい声で子どもたちに語りかけ、身を守る『光盾』の魔法をかけていく。
その時、一人の子どもが尋ねた。
「……あの人、また来るの?」
「外にも、みんなを助けに来てくれた人たちがいるんだ。仲間はたくさんいるから、怖がらなくていいよ。」
もう一人の子どもが、おずおずと続けて尋ねた。
「……あのおじさんがくれたこのぬいぐるみ、持って行ってもいい?あのおじさん……優しかった」
その子の手には、白く黄ばんだ古びた熊のぬいぐるみの手が握られている。
アスタリアは一瞬言葉を詰まらせた。
(……トラウマ・ボンディング……剥奪状態に置かれると、僅かな優しさでも心理的な結びつきや依存が形成されることがある。)
「もちろんいいよ。それじゃあ、今からこの檻を開けてあげるからね。」
そう言うと、アスタリアは神速で光魔法を発動した。放たれたレーザーが、鉄格子を次々と切り裂いていく。
それから子どもたちを二人ずつ抱え上げ、ウィンストン伯爵の部屋へと次々に運んでいった。
(そろそろサーベルが、騎士たちに「各自自由に鍛錬せよ。ただし、持ち場を離れるな」と指示しているはずだ。)
その時、コンコンと控えめなノックの音が響いた。
「ウィンストン伯爵、いらっしゃいますか?」
サーベルが小声で言った。
アスタリアは素早く扉を開けてサーベルを招き入れた。
全身を騎士の甲冑で包んだサーベルは、金属の兜まで被っていたが、兜の面頬を上げ、背に長剣を負っている。その立ち姿は凛々しかった。
サーベルは弱々しい子どもたちの数を数えた。――全員だ。行方不明になったすべての子どもたちが、まだ生きている。サーベルの瞳が、ほんの少しだけ熱を帯びた。
二人は一瞬視線を交わすと、すぐに息の合った動きで行動した。
まずは、望楼の見張りを片付けに向かう。
魔法の乗り物を使えば一瞬だが、中庭で訓練中の騎士たちに見つかるリスクがある。
アスタリアは迷わず、ベリルが気を引いている隙に、城壁を飛び越え、望楼の裏手、中庭の騎士たちの死角へと回り込むと、魔法の乗り物で一気に望楼の上へ舞い上がる!
流水のような動きで、短剣の柄で兵士の頭に一撃を叩きつけ、すかさず塔内へ躍り入る。音もなく崩れ落ちた兵士を塔内の階段脇へ引きずり込み、拘束しておく。
同じ頃、城の反対側では、アスタリアが伯爵の部屋にいることなど露知らず、中庭で厩舎長に捕まって時間を食われた家令が、まさにアスタリアの部屋の扉を叩こうとしていた。
だが、ちょうどそこへ厨房のナターシャが通りかかり、家令の手は空を切ることになった。
サーベルは伯爵の部屋の窓辺に立ち、狼煙の火を灯した。
一筋の青い煙がわずかに曲がりながらまっすぐに空へと昇っていく。
それは城外で待機するヨナと、エスダロス側の仲間への合図だった。




