第52話 ❄♡
ヴィオラのところを出た後、アスタリアは葡萄畑へと足を向けた。
そして、ようやく黄昏時になる前に、探していた、とある細長い黄褐色の小動物を手のひらに載せた。口元には満足げな笑みが浮かんだ。
(エスダロスの城のことは、ちゃんと覚えてるよ。この小動物は、計画の第一歩だ。)
そのまま巡回をこなし、フラマリスの城へ戻ったのは夜の十時過ぎだった。
昼の間も、ベリルには城内を監視させておいた。
目立たずに動くため、馬はあらかじめサーベルのところに預けてある。
……ただ、あの大きな木樽だけが少々厄介だった。城の外は切り立った崖。となれば、外の林の中に隠しておくしかないのだけれど。
自室の窓辺に立ち、ふと懸念を抱いた。
もし雨が降ったら――あの樽はさらに劣化してしまうかもしれない。
かといって、あんな大樽を堂々と担いで正門から自室に持ち込むのは、どう考えても目立ちすぎる。
この城は夜間であっても、要所要所に兵士たちが立って目を光らせているのだ。
窓から引っ張り込もうにも、私の部屋の細い窓枠では、あのサイズは到底通りそうにない。
窓から身を乗り出し、隣の窓をそっと窺って――ルーカスの部屋にまだ灯りがついているかどうか。
ちょうど隣の窓辺に、当のルーカス本人がいた。
視線が交わり――
月明かりに照らされた金髪と、相変わらず悠然とした佇まい。
どうしてこうも都合よく、同じタイミングで窓辺にいる?
「アスタリア、僕に何か用か?」
ルーカスの方から先に穏やかな声をかけてきた。
「ん……」
(ちょっと切り出しにくいな。
あの夜、彼が『もう日常の雑務の手伝いはしなくていい、自由に動いていい』って言ってから……あんまり顔を合わせてなかったし。
いや、待って。よく考えたらあれからまだ一日しか経ってないよね!?これまでずっと一緒に動き回っていたせいだ!)
唇を軽く結ぶアスタリアを見て、ルーカスはさらりと話を継いだ。
「前から言おうと思ってたんだ。例のサブレのところへ行った日の朝、領主に呼び止められて、『先に行ってくれ』と言ったんだ。あれは、領主から城の騎士の指導を頼まれていてね。僕は、日中は城の騎士たちを訓練しているんだ。」
「そうだったんだ。」
(なら、彼は昼間は忙しいのか……)
「……実は、ちょっと大きめの木樽を拾って、今は外の林に置いてあるんです。城の人たちに余計な注目を浴びたくなくて。できれば、あなたのお部屋に置かせていただけないかな、と思って……」
ルーカスはその時楽しそうに笑いを堪え始めた。
「いいよ。持ってきて。」
「それから……万一使うことになったら、あなたがいない時とか……寝てる時に、窓から取りに来てもいい? たぶん使わないと思うけど。」
(だって、昼間はあなたもいないし、夜に動くのにあなたを起こしたくないし。)
ルーカスの水色の瞳が、ぱちりと瞬いた。
少し意外そうで、けれどそれ以上に――上がった口元に、どこか甘いニュアンスが滲んでいた。
(……あ、しまった。)
普通に考えたら変すぎじゃない?
しかも、相手が寝ている間にだなんて。
「はは、いつでもいいよ。今、木樽を持ってくる?」
「うん……じゃあ、ちょっと後ろを向いててもらえる?私が『いいよ』って言うまで、振り向かないでね。」
アスタリアはわずかに表情を硬くしたまま応じた。
「分かった。」
目の前のルーカスは嬉しそうに――何がそんなに面白いんだか。
ルーカスが素直に背を向けたまま、アスタリアはスッと窓枠を飛び越え、林まで樽を取りに行った。そうして、高い城壁の上に、樽を背負って立っていた。
(もう、彼に魔法のことを知られても構わない。)
「もういいよ。」
声をかけると、ルーカスが静かに振り返る。
アスタリアが軽く跳ぶと、あの時と同じ心地よい夜風に掬い上げられ、まるで夜風がエスコートしているように、部屋の窓枠へと降り立った。
(ねえ、今回は私、わざと力を抜いて跳んだんだ。風を操るってこと、確信しちゃった。また私のために使ってくれたんだけどね。)
窓の内側に立つルーカス。吐息が届きそうなほど近い。金髪が、風にわずかに揺れている。
夜風に合わせるように、こちらへ手を差し伸べてくる。
落ち着いた、柔らかな声。
「僕の手をお取りください。」
(え?)
手を伸ばすと、すぐにルーカスの手にふわりと包まれる。
手のひらから、すべてを受け止めるような、揺るぎない力が伝わってくる。
(あ、風魔法のことばかり考えてたら、大樽が引っかかっちゃった。位置を少し調整し……)
そう思った瞬間、背中の大樽が、クッションに支えられたかのように、滑らかに角度を変えた感覚がした。
するりと窓を通り抜け、ルーカスの傍らへと滑り込む。
「ありがとう。」
アスタリアは手を離し、大樽を下ろす。
「それから、領主と狩りに行く計画があってね。息子も同行するそうだ。君は行かなくていい。ただ、日程だけは君が決めて、頼むよ。」
ルーカスは平然と口にした。
(私が決めろって……私は行かないのに……)
「決まったら伝えるよ。」
「そして、今後は僕の部屋の水と食べ物、あるいは自分で買ったものしか口にするな。机の上に食べ物を用意しておく。この扉には鍵をかけないから、いつでも取りに来ていい。」
「……分かりました。じゃあ、失礼します。」
アスタリアはルーカスの部屋と自室を繋ぐ連通扉へと足を向けた。
(そういえば、この扉、ルーカス側からは施錠されていないね。)
「おやすみ、アスタリア。」
声が、いつもよりほんの少しだけ低く、柔らかく響いた気がした。
(……そういえば、さっき手を添える時、私に敬語を使っていたよね。言葉が詰まった?
騎士が貴族の女性に対して取るような振る舞いが出るのかもしれない。)
「おやすみ。ルーカス様。」
アスタリアはふわりと笑みを零し、肩越しに振り返る。
けれど、このまま眠るつもりはなかった。どうやら、すべての準備は整った。
動き始める。




