第47話 ☃
城の厩舎は、城門のすぐ内側あたりにあった。どっしりとした大きな屋根を載せた木造の馬房が、一列に並んでいる。
近くには木製の荷車がいくつか置かれ、隣接する石造りの馬番小屋はひっそりとして暗い。どうやら見張りはすでに夢の中のようだ。
アスタリアは、自分の空色の衣で覆ったベリルを抱いたまま、ゆっくりと、足音を殺して馬たちに近づいていく。
暗がりの厩舎の中を覗くと、立ったまま器用に眠る子もいれば、横になってスヤスヤと寝息を立てる子もいる。
一頭の馬がこちらに気づき、くりくりとした目でじろりとアスタリアを捉えた。
かすかな鼻息と藁を踏むような物音がする。
『やっほー、お馬さん。へへ、馬語はちょっと得意なんだよ。』
「誰だ」
不意に、底冷えのするような、ずしりと重い声が響いた。
声の方向が、少しおかしい。馬番小屋からではない。小屋の横にうず高く積まれた、藁の山の上――人影がこちらを見下ろしている。
(馬番の人だろうな。言い訳ばっちり準備済み、発動の時間です。)
「私は王家騎士の随行者です。普段から馬の世話をしているので、新しい環境に慣れたかどうか、様子を見に来ました。」
顔はよく見えない。けれど、引き締まった体躯の輪郭と、いささかも揺るぎない毅然とした声の響きから、細身ながらも軍人のような気骨を持つ老婦人を思わせる。
シルエットからすると、髪型はアフロ……?
「……王家騎士の馬か。なら、気が済むまでよく見ておきな。上等な干し草と麦糠は、もう与えてある」
相手が、声色を和らげた。
「ありがとうございます。」
――とはいえ、その人物は藁の山から動かず、なおもじっとこちらを見下ろしていた。
(あの人は名乗らないし、こっちも不躾に聞きたくないし。普通の馬番じゃない気がする。馬も何頭かは寝てるし。今は退散しよう。)
回れ右をしようとしたその時。その人のほうが先に痺れを切らしたように口を開いた。
「腕に抱えているのは、何だ?」
「ネズミを捕って食べる小動物です。外で拾っちゃって。」
「そこはネズミがよく出るからな。それはありがたい」
相手はそう言うと、ぽつりと呟いた。
「そういえば、今日はほとんどネズミの音がしなかったな」
ベリルの毛玉の拳がちょこんと動く。
(あ、それはベリルが昨日の夜から死神として絶賛勤務中だからだ。)
「じゃあ、私は行きます。明日、ニンジンを持ってまた来ます。」
「ニンジンは主食じゃない。たまのご褒美ならいいが、一日に一本か二本で十分だ。それ以上やると馬が選り好みし始めるぞ」
(えっ?)
あの歪んだ口元、唇をめくり上げて整った歯を剥き出し、何かを嘲笑うようなあの馬の顔がよぎる。『ニンジン山盛り欲しい』って言われて、ただ十本を貢いだけど。馬は嘘をつかないし、馬本人も適量を知らないだけだな。
「はい。」
「私はこの厩舎の厩舎長だ。何かあれば私に言え」
「わかりました……ところで、どうしてあんなところで寝ているんですか?」
「馬を見ながら眠るのが好きで。
時には、人間よりも馬の方が、よほど人間味があるように思える」
藁の山と、馬の餌である乾草は、普段ならほのかに乾いた穀物の茎や草の甘い香りを漂わせるものだ。だが馬房の中では、その香りさえも馬たちの濃い匂いにすっかり押され、包まれている。
「あなたはさっき、厨房の方から来ただろう。城には城の規律がある。むやみに歩き回るな。
厨房長のナターシャも、あそこに部外者が近づくのをひどく嫌うからな」
(彼女の藁の山は斜め、それで見渡せるわけか……一手あるな。)
「他に行ってはいけない場所はありますか?」
「最も基本的なルール――西側には近づくな」
ピンポーン
(すぐ行こう。――ルビーに行かせよう。)
アスタリアは自分の頭の上にレーダーが生えて、くるくる回っているような気がした。
先ほどから見つめていた馬は、いまももぐもぐと口を動かして、見知らぬ来訪者と世話係のやり取りを観察している。
このお馬さん、ひときわ巨大で、全身の筋肉の厚みが尋常ではない。頭も普通の馬より一回り大きい。
重い物資を牽引する、一頭で体重が1トンを超える特殊な品種「重輓馬」だ。
城に工事用の石材や大型の貨物を運ぶために、こうした重輓馬が配備されていても何ら不思議はない。
その馬は、ふっとこちらへ長い首を伸ばし、耳もふるりと向けて、内緒話を聞かせてくれた。
(『へえ、そうなんだ。あの人、あなたを小さい頃から見守ってきたの?
……でも、子馬の頃は、あの人はあまり厩舎に来てなかったか。』)
アスタリアはそっと手を伸ばし、そのかなり高齢の馬の鼻面を撫でた。
「『馬の方がよほど人間味がある』って――言葉では通じなくても、ちゃんと世話をされた馬は、誰が自分を好きでいてくれるか分かってる。体は大きくて力も強いけど、好きな人にはちゃんと力を加減して優しくする……そういうことですか?」
「概ねそんなところだ。馬はな、実はひどく臆病な生き物だ。常に目の前の見知らぬ者が『脅威』かどうかを値踏みしている。人々が馬を誤解するのは、馬の習性を理解せぬまま無闇に近づくからだ。
そしてな――馬は、自分をよく扱ってくれた者のことも、自分を傷つけた者のことも、忘れない。」
声には、どこかやるせなさを帯びた哀愁が滲んでいた。
「そうなんですね……。じゃあ、私はこれで。また明日来ます。」
「ああ。くれぐれも、西側をうろつくなよ」
「はい、分かりました。」
相手が見ているかどうかなど気にせず、アスタリアはにっこりと無邪気な笑みを浮かべた。
フンスと鼻を鳴らして、心の中で意気揚々と呟く。
(ターゲットは『西側』。偵察して、平面図を作る。へへ。)
片腕に抱えた大きなぬいぐるみのようなベリルは、ゆるりと身を預けている。
空色の衣の隙間からベリルの顔がのぞく。
ワシミミズクの特技――うとうとする時、下まぶたがせり上がって目を覆う。そのせいで二つの三日月のように細まった目元が、笑っているみたいで、妙に可愛く見えた。




