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第43話 ☃♡

 城の隅には、高い見張り台がそびえていた。けれど、常に誰かがいるわけではない。


 アスタリアはあらかじめルビーに偵察を頼み、周囲に人がいないことを確認した。

 そして崖の斜面から突き出た岩の足場を蹴り、一気に高壁へと跳び上がった。


 そのまま、自室の細窓へ跳び移ろうと膝を沈めた――その瞬間


 隣の大きな窓にいるルーカスが、こちらを見ていた。


 ぴたり――半ば跳びかけた動きがフリーズした。

 高壁の上。目が合った。


 だが、そこはプロ。コンマ一秒でアスタリアの表情はカチッと「営業モードの顔」に切り替わっていた。


「アスタリア、こっちの窓の方が大きい。」


 ルーカスは窓辺へと歩み寄り、楽しげに声をかけてきた。


 アスタリアの自室は、随行者用の控えの間だ。内扉を介して、ルーカスの部屋へと繋がっている。

 ルーカスの部屋には立派な大窓があるのに対し、角に位置するアスタリアの部屋には、細い窓がいくつか並んでいた。


「ルーカス様、まだ起きていらしたんですか?」


「あぁ、まだだよ。こっちから入らないか?」


(盛大な無駄口を叩いちゃった。起きてるから窓辺にいるに決まってるじゃない。


 それより、ルーカス様はどうして私が部屋に跳び込めるって前提で話してるの? 

 普通の人間はおろか、一流の剣士だって、この高壁から窓へ跳び移るなんて不可能な芸当なのに。


 というか、このイノシシの肉、ルーカスにあげようと思ってた。)


 この世界には、発熱、冷却、防腐、浄化――それぞれ異なる役割を持つ特殊な鉱石が存在する。

 だから肉も、明日になっても新鮮なまま食べられる。


(これは事件の話を切り出す好機かもしれない。)


「お部屋に伺います。」


 ルーカスはすっと身を引き、アスタリアが跳び込めるように窓のスペースを空けた。

 アスタリアはしなやかに地を蹴った。


 ――ふわり。不意に、奇妙な感覚に包まれる。

 夜風が、やけに柔らかかった。身体の周囲を優しく包み込み、そっと目的地へ送ってくれるような感触。


(妙だ。跳びやすい。いや、少し――跳びすぎた?)


 わずかな違和感が、アスタリアの中を通り過ぎた。


 窓枠からひらりと床に着地し、室内へと滑り込み、ルーカスのすぐ横を擦れ違うようにして通り抜ける。

 すれ違いざま、微かな体温と衣擦れの音が感覚をかすめた。


(何も聞かないのか。この不自然な行動について。)


 内心のツッコミをよそに、ルーカスはアスタリアを見て、柔らかく笑っていた。


「少し、食べ物の香りがする。」


 その言葉で、アスタリアの脳内が、すとんとイノシシ肉チャンネルへ戻った。


「あ、外でイノシシの肉を手に入れてきたんです。ルーカス様も食べますか?」



 ルーカスは笑いを堪えるような顔をした。 

 ――この状況で断れるわけが……ないだろう。


「少しいただこうかな。こんな夜遅くに戻ってきたのは、それのため?」



 懐の紙包みからは、まだ肉塊の熱が伝わってくる。


(―ここはきっちり、仕事の話で押し通そう。

 ……ていうか、距離近くない?)


 アスタリアはすっと一歩後ろに下がり、適切な距離を取って、口を開いた。


「先ほど、エスダロスへ行ってまいりました。子供たちの連続行方不明事件が起きていると聞きましたので、その調査に加わろうと考えております。随行としての務めも疎かにはいたしません。」


(うん、嘘はついていない。確かにエスダロスには行ったし。ただ、現地でその噂を聞いたわけじゃないってだけで。)


 アスタリアはルーカスの肩を見つめながら、ハッと我に返る。


 ……しまった、私、夜中に勝手に出歩いてたの、完全にバレてる。

 事件のことさえ伝えて、あとはルーカス様の反応次第で考えよう――そっちしか考えていなかった。

 ターゲットの意識誘導、失敗したか。


 彼の馬を勝手に使ったわけじゃないし、そこは無実を主張したい。


 アスタリアの脳内で、戦術的アラートが鳴り響く。



 その時、どこか面白がるような眼差しでそんなアスタリアを見守っている、ルーカスは――


 エスダロスの街まで、ここからそれなりの距離があるな。

 サーベルから聞いたのか、それとも本当に現地へ行って戻ってきたのか。

 夜間は関所も閉鎖されている。道なき林を抜けてきたとしか考えられない。


 あの高い城壁を跳び越えるなど、精霊魔法か。

 彼女から何か事情を聞こうとも、利益を得ようとも思っていない。


(僕が先ほど、風の魔法を明かしたことに、君は気づいているのかな?

 ――その時が来れば、すべてを君に話す。)


 ただ純粋に、距離を縮めたいだけだった。



 互いの気配だけが静かに交わる間、アスタリア脳裏のざわめきは加速していく。


 エスダロスって、結構遠い。さっき窓に跳び込んだとき、ルーカス様は私の魔法に気づいているかもしれない。

 でも、この人、そういう話題を深掘りしないんだよね。



 ルーカスの柔らかな声だった。


「参加させてほしい。君の身が心配だ。」


(え?私のことが心配?)


「隣国の内政です。ルーカス様の立場で、参加できますか?」


 ルーカスの静かな息遣いと穏やかな声が、夜風のように周囲を包み込んだような気がした。


「私が関わっていることを知っているのは、君たちだけだ。

 何か必要なことがあれば、遠慮なく差し向けてくれ。」



 その言葉を聞いた瞬間、胸を占めていた懸念がすっと霧散した。

 代わりにじんわりとした嬉しさが広がった。


(よかった。アプローチの過程で計算違いはあったものの、ルーカス様自ら乗ってきた。

 ふふ、完璧。これなら明日、サーベル騎士に『すべて順調』と報告できる。)


「ありがとうございます、ルーカス様。」


「それにしても、このイノシシの肉は特別だ。なかなか風変わりな夜食だな。

 一緒に食べようか?」


(走ってきた甲斐があった。もう少し食べられる~)


「私は、香ばしくてカリカリの皮を少しいただきます。」


「分かったよ。」


 ルーカスは紙包みを受け取り、机の上に広げる。

 アスタリアはリラックスした様子でその横に立った。


 窓から、やわらかい夜風がそっと入り込んでくる。


 部屋いっぱいに広がる香ばしいお肉の匂いの中、二人は並んで食べながら、明日のことをゆるく話し続けていた。

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