第9話「ナビ違和感」
観光を終えて、ゆっくりと駐車場に戻ってきた。
日差しが傾きかけ、軽自動車「A-BOX」の車体が淡く赤みを帯びて見える。
夕方の光が、白いボディをオレンジ色に染めていた。
「ふぅ、けっこう歩いたな」
足が少しだるい。
歴史資料館から庭園、城跡まで、思った以上に歩き回った。
額に汗がにじんでいて、シャツが背中に張り付いている。
リモートキーでドアロックを解除すると、ピッという音と共にハザードランプが一瞬点滅した。
運転席のドアを開けた瞬間、むわっとした熱気が顔を襲った。
真夏の日差しを何時間も浴びていた車内は、サウナのように蒸し暑い。
ダッシュボードに手を置こうとして、慌てて引っ込めた。
触れないほど熱くなっている。
「あっつ……」
窓を少し開けて熱気を逃がしながら、運転席に乗り込む。
シートが太陽熱を吸収していて、背中が焼けるように熱い。
エンジンをかけると、エアコンが唸りを上げて動き始めた。
最初は生ぬるい風しか出てこない。
冷気が出るまで、しばらくかかりそうだ。
ナビの画面が立ち上がった。
だが、いつもならすぐに現れるアンナの姿がなく、ただの地図画面が表示されているだけだった。
「……アンナ?」
静寂。
エアコンの送風音だけが、車内に響いている。
「あれ……アンナ?」
数度、名前を呼ぶ。
返事がない。
画面には地図だけ。
メイド服の少女の姿は、どこにもない。
一瞬、不安がよぎる。
まさか、故障? あるいは熱でやられたのか?
真夏の炎天下に何時間も放置されていたのだ。
車内温度は軽く五十度を超えていたかもしれない。
精密機器には過酷な環境だ。
「おーい、アンナってば……」
駐車場の向こうで、家族連れが車に乗り込もうとしているのが見えた。
子供が何かを指差して笑っている。
こちらを見ているわけではないが、ナビに向かって話しかけている自分の姿を想像して、少し恥ずかしさを覚える。
だが気にしている場合ではない。
そのときだった。
ナビの画面に淡い光のエフェクトが走り、花びらのような粒子が舞い上がる。
画面がちらつきながら、ゆっくりとアンナの姿が映し出される。
《……っはっ!? ご、ご主人様っ!? 申し訳ありません、少々……処理に集中しておりまして……》
画面にアンナが現れる。
いつものメイド服姿。
だが、どこか取り繕うような笑み。
慌てて起きた人のような、そんな雰囲気。
《お、お帰りなさいませっ♡ 本日のご観光、お楽しみいただけましたかっ?》
「お、おう。なんだよ、反応なかったから焦ったぞ」
エアコンの風が、ようやく冷たくなり始めた。
頬に当たる冷気が心地よい。
《し、失礼いたしました……次回以降は、待機中も応答できるよう改善しておきます……!》
「うん? 改善ってお前……自分で成長してるってことか?」
アンナの言葉に、ふと違和感を覚える。
普通のナビなら、「設定を変更してください」とか「サポートセンターにお問い合わせください」とか言うはずだ。
自分で「改善する」なんて言葉は出てこない。
まるで人格が芽生えているような錯覚に、ほんの少し戸惑いを感じていた。
その言葉に、アンナは気恥ずかしそうに頬を赤らめ、ちらりと視線を逸らしたまま沈黙した。
粗いドット絵の中でも、「照れている」のが分かる。
プログラムされた反応なのか、それとも――
慌てて頭を下げるアンナの姿に、呆れ半分、安心半分といった表情を浮かべた。
壊れていたわけじゃない。
それだけで、なんだかほっとした。
《……さて、ご主人様。次は、どちらへ向かわれますか?》
照れの残る声色のまま、アンナはいつもの案内モードへと切り替わろうとする。
「うーん……そろそろ帰るか」
窓の外を見ると、駐車場の向こうに夕焼けが広がり始めていた。
オレンジと紫が混じり合った空。
家族連れの車が、エンジンをかけて出ていく。
そろそろ、みんな帰る時間だ。
そう呟くと、アンナはわずかに間を置いて、静かに答えた。
《はい。お疲れ様でございました。では、帰宅ルートをご案内いたします……》
だがその声には、ほんの少しだけ名残惜しさを含んでいるようにも聞こえた。
一日中走り回って、観光して、また走って帰る。
長い一日だった。
でも、悪くない一日だったと思う。
俺はシートベルトを締め、ギアをドライブに入れた。




