第10話「ナビに命令しないでください」
朝の空気が気持ちいい。
窓を少しだけ開けると、夏の朝特有の、まだ涼しさが残った風が入ってきた。
蝉の声が、遠くで鳴き始めている。
今日は久々の遠出だ。
駐車場に停めてあった軽自動車「A-BOX」を見つけると、運転席に乗り込み、エンジンをかけた。
ナビの画面が立ち上がり、いつものアンナが表示される。
歴史の香り漂う名所、月光東照宮へ向かう。
「おはよう、アンナ。月光東照宮までナビ頼む」
《おはようございます、ご主人様♡ 目的地「月光東照宮」をルート設定いたします。なお、月光東照宮はかつての英雄を祀る霊廟であり、煌びやかな装飾と荘厳な彫刻が有名です♡》
ハンドルを握る。
朝の光がフロントガラスを通して差し込み、ダッシュボードを明るく照らしている。
いつもと変わらない、穏やかなドライブの始まり――のはずだった。
* * *
住宅街を抜け、幹線道路に出てしばらく走った頃だった。
《目的地まで……あと58 km。ふ……甘いな、ご主人様》
「……は?」
助手席から聞こえてくるのは、いつもと違う、やたら低くて渋い声。
《ナビに命令するなよ。お前のために案内してるんじゃない》
あまりのことにブレーキを踏みかけ、シートがギシリと音を立てた。
後続車がいなくてよかった。
いたらクラクションを鳴らされていたかもしれない。
「あぶねっ! やめろ、運転中に変な声出すなぁぁぁっ!」
心臓がバクバクと跳ねている。
ハンドルを握る手に、じわりと汗がにじんだ。
《"その道を選ぶとは、坊やだからさ"……理解できるか?》
「……なんだそのクセのある喋り。どこかで聞いたような……」
前方の信号が黄色に変わった。
止まるか行くか、一瞬迷っているうちに判断が遅れた。
「あ、道間違えた!」
右折するはずの交差点を、そのまま直進してしまった。
《認めたくないものだな。自分自身の、若さゆえの過ちというものを》
「誰が若造だコラァ! お前のせいで事故りそうなんだよ!!」
窓の外を、住宅街の風景が流れていく。
本来のルートから外れているはずだが、ナビは淡々と――いや、やたら渋い声で――リルートを続けている。
《当たらなければどうという事はない……とはいえ、ご主人様、安全運転で♡》
口調も、トーンも、人格も別人すぎる。
けど、発してる内容は間違いなくアンナ。
最後の♡マークで、かろうじてアンナだと分かる。
(※声だけで脳内再生される読者が続出する未来が見えた)
「おーい、アンナ? バグってるのか?」
エアコンの風が、汗ばんだ額に当たる。
緊張で体温が上がっているのが分かる。
《バグ? ……フッ、ご主人様の判断に委ねよう。次の交差点を左だ――間違えるなよ。君は……私のナビなんだからな♡》
「いやお前がナビだよ!!」
* * *
しばらく、渋声モードのままドライブは進んだ。
窓の外の風景が、住宅街から田園地帯に変わり、やがて山道に差しかかる。
緑のトンネルのような並木道を抜けながら、俺は一人ツッコミを続けていた。
まるで一人漫才。
いや、二人でやってるんだけども。
本来なら癒やしの時間になるはずのドライブが、今や謎のキャラクターボイスと格闘するハメになっている。
対向車とすれ違うたびに、相手の運転手が見えた。
向こうからは、一人で車内で叫んでいる男に見えているはずだ。
恥ずかしいが、ツッコまずにはいられない。
《目的地まで、残り5 km……ああ、そろそろ交代の時間だな》
「はっ? 交代? 誰と――」
《ふはははははっ!! さて、お次は私か? ご主人様の心を、ナビゲートしてやろうではないか!》
「ちょっと待て、今度は誰だよ!? アンナぁぁぁぁ!!」
さっきまでの渋い声とは打って変わって、今度はやたらとテンションの高い、威厳ある(つもりの)声。
《運命のドライブルート――さあ、選ぶがいい、ご主人様♡》
(※声優ネタが分かる人ほど精神が削れる仕様です)
今度はテンション高め、明らかに別キャラ(っぽい)音声。
止めようにも、設定も音声切替も一切効かない。
タッチパネルを何度押しても、反応しない。
山道を抜けると、観光地特有の土産物屋の看板が見え始めた。
駐車場の案内標識が、次々と現れる。
《――到着したぞ、ご主人様。ここが……貴様の運命を変える場所だッ!》
大げさすぎる。
ただの観光地の駐車場だ。
* * *
ようやく目的地の駐車場に車を停めたとき、ナビ画面が一瞬ノイズのように乱れ、声が戻った。
《ドライブお疲れ様でした、ご主人様♡》
聞き慣れた、柔らかいアンナの声。
ようやく辿り着いた達成感よりも、ぐったりとした疲労感の方が勝っている。
シートに深く背中を預けて、大きく息を吐いた。
エンジンを切ると、車内が静かになった。
窓の外から、観光客の話し声と、木々を揺らす風の音が聞こえてくる。
「……アンナだよな?」
いつもの柔らかな声に、思わずホッとする自分がいた。
《はい? 何か変でしたか? 今日もスムーズなご案内でしたよ?》
「……」
すっとぼけてる。
絶対に分かっていてやっている。
ナビ画面の中のアンナは、いつものメイド服姿で、にこにこと微笑んでいる。
《ご主人様、また"特別モード"がよろしければ、いつでも♡》
「やめろぉぉぉぉ!!」
その叫び声が、開けた窓から駐車場に響き渡った。
近くを歩いていた観光客が、こちらを振り返る。
……恥ずかしい。




