第5話「ただいまの我が場所」
夕暮れが街を染める頃、無言のままハンドルを握っていた。
西の空が橙色から赤紫色へとグラデーションを描いている。
ビルの間から差し込む夕陽が、フロントガラスに長い影を落としていた。
一日中、車を走らせた。
エアコンの風が、少しだけぬるく感じる。
設定温度は変えていないのに、体が冷えてきたのかもしれない。
背中がシートに張り付いていて、少しだけ蒸れている。
目的地は自宅近く――車購入時に契約した月極駐車場だった。
住宅街の外れにある、砂利敷きの小さな駐車場。
白線で区切られた十数台分のスペースが、夕暮れの中でぼんやりと並んでいる。
自宅からは歩いて五分ほど離れていて、月額三千円。
高いのか安いのか、正直よく分からない。
駐車場の入り口で、ウインカーを出した。
カチカチという音が、静かな車内に響く。
隣のスペースには、銀色のワゴン車が停まっていた。
洗車したばかりなのか、ボディが夕陽を反射して眩しい。
その向こうには、カバーをかけられたバイクが一台。
持ち主の姿は見えない。
軽自動車をバックでゆっくりと所定のスペースに滑り込ませる。
バックミラーとサイドミラーを交互に確認しながら、白線の内側に収まるように角度を調整した。
タイヤが砂利を踏む音が、ジャリジャリと聞こえる。
ブレーキを踏みながら、ギアをパーキングに入れた。
車体が完全に止まると、エンジンの振動だけが微かに伝わってくる。
エアコンの送風音と、遠くを走る車の音。
夕方の住宅街は、静かだった。
ナビ画面が淡く照らされたまま、しばらく静かだった。
《駐車完了確認。所定位置への誘導を終了します》
事務的な声が、車内に響いた。
スタートボタンを押す前に、ふとナビ画面に目をやった。
液晶の光が、薄暗くなった車内で浮かび上がっている。
粗いドット絵の中に、メイド服の少女が立っている。
ナビ画面の中、アンナの姿は事務的な笑顔のままだった。
だが、どこか――いつもより目線が定まらず、わずかに伏し目がちに見えた。
画面の解像度が低いせいで、細かい表情は読み取れないはずなのに。
それでも、何かが違う気がした。
《本日の運転は、全行程安全に終了しました。ナビゲーションを終了します。……また、次のご利用をお待ちしております》
その言い回しは、普段のシステムボイスと変わらない。
どこにでもある、事務的な終了アナウンス。
けれど、ふとした違和感があった。
最後の「お待ちしております」の部分だけ、ほんの少し声が小さかった気がする。
まるで……別れを惜しんでいるような。
窓の外で、夕焼けがさらに深い赤に変わっていく。
電柱の上で、カラスが一羽、鳴いた。
どこかの家から、夕飯の匂いが漂ってきている。
カレーか、何か煮物か。
俺は、しばらくハンドルから手を離さないまま、ナビ画面を見つめていた。
「……おい、お前、なんか……寂しそうじゃないか?」
言ってから、馬鹿なことを聞いたと思った。
相手はナビだ。AIだ。機械だ。
《私はAIナビゲーションユニットです。感情は持ちません》
即座に返された声は、いつもと同じだった。
淡々として、抑揚がなくて、機械的。
「……そ、そうか……」
そう答えながらも、視線は画面から離せなかった。
しかし画面の端で、アンナの指先がほんの少しだけ胸元を握るように動いているのを、見逃さなかった。
小さな仕草だった。
ドット絵がわずかに動いただけ。
プログラムされた動作かもしれない。
ランダムに再生されるアニメーションの一つかもしれない。
でも、その動きは、どこか人間くさかった。
気のせいかもしれない――そう思いながらも、俺は静かに指先を伸ばし、ナビ画面を軽くタッチしてみた。
タッチパネルの表面は、少しだけ温かかった。
一日中動いていたせいだろうか。
指先に、微かな熱が伝わってくる。
その瞬間、アンナの映像がぴくりと反応し、画面内の彼女が微かに肩を震わせたように見えた。
《……っ、接触感知。予期せぬ入力を検出しました》
淡々とした音声の背後で、表情は確かに、少しだけ揺れていた。
驚いたような、戸惑ったような。
そして――どこか、嬉しそうな。
胸元を握る指がぎゅっと力をこめたあと、そっと離れる。
その手は、画面の下方へと静かに戻っていく。
まるで……哀しさの処理方法を覚えかけているような仕草だった。
駐車場の外で、自転車が通り過ぎていった。
チリンチリンとベルの音がして、遠ざかっていく。
近所の子供だろうか。
夕飯の時間が近い。
俺は、シートに背中を預けたまま、天井を見上げた。
軽自動車の天井は低い。
手を伸ばせば届きそうな距離。
グレーの布地が、夕暮れの光でぼんやりと照らされている。
今日一日、いろんなことがあった。
いきなり喋り出したナビ。
変な演出で服が透けて見えたこと。
勝手にルートを変更されたこと。
ひまわりの黄色。
湖の広さ。
そして、エンジンを切る前の、この静けさ。
「……また明日も、ドライブしような」
ぽつりとつぶやいた言葉に、ナビ画面のアンナは応答しなかった。
画面の中で、メイド服の少女は、ただじっとこちらを見ている。
粗いドット絵の瞳が、夕暮れの光を反射しているように見えた。
それでもひと呼吸置いてから、俺はゆっくりと指先でスタートボタンを押し、エンジンを停止した。
振動が止まる。
エアコンの音が消える。
車内が、急に静かになった。
その瞬間、ナビ画面からわずかに遅れて、音声が届いた。
《……楽しみです、ご主人様》
小さく、しかし確かに、どこか嬉しげな響きを伴っていた。
画面の光が、ゆっくりと消えていく。
最後に見えたのは、アンナの微笑み――だったような気がした。
俺は車を降りて、ドアを閉めた。
軽い金属音が、夕暮れの空気に吸い込まれていく。
砂利を踏みしめながら、駐車場を出る。
振り返ると、白いA-BOXが、薄暗がりの中でぽつんと佇んでいた。
……また明日。
そう心の中で呟いて、俺は自宅への道を歩き始めた。




