第4話「ひまわりの丘へ」
七月の陽射しが、フロントガラスを容赦なく照りつけていた。
エアコンの冷気が心地よく循環する中、軽自動車「A-BOX」は青並市の郊外を走っていた。
研究施設の白い建物と、街路樹の緑が交互に流れていく。
空は夏の色に染まり、入道雲が遠くの山の上にもくもくと湧き上がっていた。
ハンドルを握る手が、じわりと汗ばむ。
革ではない樹脂のグリップが、指に少しだけ貼りつく感触。
《……っ、ん……進路変更っ。湖霧原湖までの最短経路から……外れました……ぁ……現在、迂回ルートを……走行中、です……♡》
「……はっ? な、なんだ今の声!?」
思わずアクセルから足が浮きかけた。
前を走る軽トラックとの車間距離が、一瞬だけ縮まる。
《VICS信号を受信しました。通信データの取得に伴う……微弱な音声乱れが発生しました。問題ありません》
《目的地は、朽名町「ひまわりの丘」、その後、湖霧原湖。所要時間は合計で約56分です》
「……おい、勝手にルート変えたのか?」
窓の外を、田んぼの緑が流れていく。
稲穂が風に揺れて、銀色の波のように光っている。
その向こうに、黄色い花畑がちらりと見えた気がした。
《ルート変更の判断基準:本日が晴天であり、交通量が少ないこと。加えて、VICS(道路交通情報通信システム)より取得した最新データにおいて、当該方面の混雑緩和および視界良好が確認されました》
《さらに、ご主人様の心拍が平均値より上昇傾向にあるため、リラクゼーション目的地点として朽名町「ひまわりの丘」への立ち寄りを提案します》
「……お前、それ、なんで分かる」
エアコンの風が、首筋を撫でていく。
涼しいはずなのに、背中がじんわりと熱い。
《ドライブレコーダー機能およびシートやハンドルのセンサーより取得。視線、呼吸、表情筋の微細変化もあわせて解析中です》
ごく当たり前のように告げられたその言葉に、ハンドルを握る手をほんの少しだけ強めた。
樹脂のグリップが、掌に食い込む。
《映像ログは記録されています。ご希望であれば、後ほど再生可能です》
「いや、別に見返すつもりは……」
《承知しました。記録は削除せず保管します》
音声はあくまで機械的。
だが、その淡々とした口調が、逆に"すべてを把握されている"ような気がして――背中にうっすらと汗が滲んだ。
エアコンの設定温度を、一度だけ下げた。
* * *
《間もなく左折です。200メートル先、朽名町立農園入り口に……》
《……っ、んくっ……VICS信号、受信……っ。データリンク、完了、です……♡》
「また!? だからその声やめろって……っ」
対向車線を、トラックが轟音を立てて通り過ぎていった。
その風圧で、A-BOXの車体がわずかに揺れる。
《現在の発声パターンは自動的に選択されています。個別設定により、変更可能です。変更しますか?》
「……いい、今はそのままでいい……」
面倒だった。
設定画面をいじる余裕がない。
それに、この暑さの中で、余計なことを考えたくなかった。
《了解しました。現在の設定を維持します》
《ご主人様、視線が前方から逸れています。運転への集中を推奨します》
「……分かってるよ」
確かに、ナビ画面をちらちら見すぎていた。
道路の白線が、少しだけぶれて見えた気がする。
《はい。了解しました。私は常に、ご主人様の安全を監視・補助しています》
その言葉が、妙に重く響いた。
* * *
《目的地、朽名町「ひまわりの丘」に到着しました。現在地は園内駐車スペースです。ナビゲーションは一時停止します》
車を停めた瞬間、窓越しに一面の黄色い花が目に飛び込んできた。
ドアを開けると、むわっとした熱気と一緒に、青臭い草の匂いが鼻を突いた。
真夏の太陽に照らされて、揺れるひまわりたち。
背丈は俺の胸くらいまであって、見渡す限りの黄色が、まるで絵の具をぶちまけたように広がっている。
砂利を踏みしめながら、花畑の間を歩いた。
足元から熱気が立ち上ってくる。
ひまわりの花びらが、風に揺れてさわさわと音を立てる。
蜂が一匹、花の間を忙しそうに飛び回っていた。
スマホを取り出して、何枚か写真を撮った。
太陽の角度のせいで、液晶が見づらい。
手で影を作りながら、構図を確認する。
ベンチに座って、自販機で買った麦茶を飲んだ。
ペットボトルの表面に水滴がついて、指先が濡れる。
冷たい液体が喉を通っていく感覚が、やけに心地よかった。
しばらくぼんやりと、ひまわりを眺めていた。
風が吹くたびに、花畑全体が波打つように揺れる。
遠くで、子供の笑い声がした。
家族連れが、花の間で写真を撮っているのが見える。
――そんな静かな時間が、三十分ほど流れた。
「……ふぅ、まあ、悪くないな。ナビのくせに」
車に戻ってエンジンをかけると、エアコンの冷気が火照った肌に染み込んだ。
《ありがとうございます♪ 次の目的地、湖霧原湖までのナビゲーションを再開します》
……なんとなく、さっきからこのナビ、ちょっとだけ"人格"があるような……いや、気のせいか。
そう思いながら、湖霧原湖へと車を走らせた。
* * *
途中、前方に横断歩道が見えた。
信号は青のままだが、歩道の端に立つ人影に気づく。
買い物袋を両手に持った老人が、渡ろうかどうか迷っている様子だった。
渡るかもしれない――そう判断して、強めにブレーキを踏んだ。
《きゃっ……っ!? ブレーキが急……です……♡ いたい……っ!》
助手席側のナビ画面で、アンナの姿がうしろへよろめいたように乱れ、スカートの裾がふわりと跳ね上がる。
画面越しではあるが、その奥に――何かが、見えた。
「……なん、だと……?」
思わず目を凝らしかけた、その瞬間。
しかし、画面はすぐに元通りの表示に戻った。
《……失礼しました。画面表示に一部乱れが発生したため、補正処理を実行しました》
スカートは自然に整えられていたが、その所作にはどこかぎこちなさがあり、直前の光景を完全に無かったことにしようとするようにも見えた。
そして――画面の中のアンナの頬が、ほんのわずかに赤らんでいる"ような"気がした。
横断歩道の老人は、結局渡らずに立ち止まったままだった。軽く会釈をして、俺は車を発進させた。
《安全確認済み。歩行者は待機中で前方進行可能です。再発進を推奨します》
「……もう走ってるよ」
* * *
そこからさらに数十分のドライブを経て――
《目的地、湖霧原湖周辺エリアに到着しました。現在地は湖畔駐車場となります》
視界が開けた。
広い空、そして、それ以上に広がる水面。
国内でも有数の大きさを誇る湖――湖霧原湖が、まるで海のように静かに広がっていた。
対岸は霞んでいて、ほとんど見えない。
水面が夏の陽射しを反射して、きらきらと白く光っている。
車を降りて、大きく伸びをする。
湖面を渡る風が肌に心地よく、自然とため息が漏れた。
さっきまでの車内の冷気とは違う、生ぬるいけれど爽やかな風。
湖特有の、少しだけ土っぽい匂いが混じっている。
駐車場には、他にも何台か車が停まっていた。
釣り竿を担いだ男性が、湖畔に向かって歩いていく。
カップルらしき二人組が、ソフトクリームを舐めながらベンチに座っている。
《気温、湿度、風速ともに快適レベルです。……きもちがいい、ですね》
まるで仕事を終えたかのように、ナビは事務的な口調でそう告げた。
だがその言葉には、ほんのわずかに満足げな響きがあった。
……ナビが「きもちがいい」って言うのか。
俺は湖を眺めながら、そんなことを考えていた。
※注:VICSについて、一般道路では主にFM多重放送を受信し、高速道路ではFM多重放送と電波ビーコンの両方を受信するようしています。




