第43話「高解像度のやきもち」
翌朝。
カーテンを開けると、冬の訪れを告げるような、白く乾いた空が広がっていた。
俺は襟元を合わせ、少し身震いしながらA-BOXに乗り込み、エンジンをかけた。
《おはようございます、ご主人様。本日の青並市周辺は晴れ。気温は一桁台まで冷え込んでいます。暖房を入れますか?》
起動と同時に、車内に鈴を転がしたような声が響く。
ナビ画面に現れたのは、格式高いメイド服に身を包んだアンナだ。
……相変わらず、違和感が凄い。
このA-BOXに付いているのは、数年前のディーラー純正ナビだ。
液晶の解像度は低いし、視野角だって狭い。
なのに、そこに映るアンナだけが、画素の粗さを無視するかのように鮮明だった。
髪の毛の揺れ、厚手のメイド服の質感、そして何より、生きている人間のような微細な表情の変化。
古いブラウン管テレビで、最新のフルCG映画を見ているような――あるいは、画面の向こう側に「本物」が無理やり押し込められているような、奇妙なアンバランスさだ。
《ご主人様? そんなにお顔をじっと見て……私の体に、また見惚れてしまいましたか?》
「……まあな。何度見ても、お前だけ浮いてるんだよ」
《ふふっ、お褒めいただき光栄です。でも、寒いですから、じっとしていないで外に出かけましょう?》
アンナは小首を傾げ、控えめに、けれど期待を込めた瞳でこちらを見つめてくる。
《せっかく私が本来の姿に戻ったのです。私の性能チェックも兼ねて、少し遠出をしませんか? 紅葉はもう終わりかけですけど、冬のドライブもオツなものですよ。……たとえば、誰かをお誘いして》
「誰かって……誰を?」
《そうですね……たとえば、レイナ様などはいかがでしょう?》
アンナの口から出た名前に、俺は少し驚いた。
《以前、あの資料の件でご協力いただいたでしょう? そのお礼も兼ねて、温かいものでも飲みに行こうとお誘いするのは、とても自然で素敵なプランだと思います》
俺はエアコンの吹き出し口に手を当てながら考える。
確かに、レイナには世話になった。
それに、あの日――アンナがこの姿に変わった直後、レイナに見られた時のことを思い出す。
あの日、レイナは初めて見るアンナの姿に感嘆の声を上げた。
『すごい……今のナビって、こんなに表情が豊かなの? 全然、AIっぽくないね』
あの時のレイナの目は、本気で感心している研究者のそれで。
アンナは、まんざらでもなさそうに微笑んでいた。
だが、その完璧なやり取りを見ていた俺の心には、安堵とは別に、黒いシミのような違和感が広がっていたのだ。
いつものポンコツで身近なアンナが、急に手の届かない「完成された存在」になってしまったような、漠然とした寂しさ。
……まあ、考えすぎか。
レイナに引かれていないなら、誘っても問題ないだろう。
「……レイナか。そうだな、この間は送っただけだったし、ちゃんとお礼もしたいな」
《はい! そうです! 鉄は熱いうちに打て、女子は人肌恋しい季節に誘え、です!》
アンナは身を乗り出して力説する。
《さあ、スマホを出してください。私がお手伝いできるのは、ナビゲートまでですから。……ほら、早く!》
急かすわけではないが、断りづらい絶妙な「お願い」のトーン。
俺は苦笑しながらスマホを取り出した。
俺はレイナのトーク画面を開き、文面を打ち込み始めた。
『急で悪いんだけど、今日もし暇ならドライブ行かない? この間の資料のお礼もしたいし』
かじかんだ指先で、ポチポチとフリック入力で文字を打つ。
ふと、視線を感じてナビ画面に目をやった。
《…………》
アンナが、じっと俺の手元を見つめていた。
その表情は、笑顔だ。
完璧な、メイドとしてのお手本のような慈愛に満ちた笑顔。
けれど。
「……おい、アンナ」
《はい、なんでしょう?》
「お前、なんか……すごくないか?」
《何がですか?》
「汗」
アンナの額から、ツーッとしたたり落ちる透明な雫。
頬を伝い、顎先で弾けるそのリアルな質感は、低解像度の画面であってもはっきりと見て取れた。
いや、汗だけじゃない。
笑顔のまま固まっているその瞳が、せわしなく左右に泳いでいる。
「車内だってまだ温まってないのに、すごい汗かいてるぞ。どこか具合でも悪いのか?」
俺が指摘すると、アンナはハッとして、慌てて画面の中で顔を背けた。
《き、ききき、気のせいです! これは汗じゃありません! 排熱処理が追いついてないんです!》
「排熱?」
《は、はい! 私のこの『超・高精細な美貌』を描画するには、この古いナビのMPUじゃ処理能力がカツカツなんです! 計算処理で基盤が熱を持って、いわゆる熱暴走寸前というか……!》
アンナはハンカチを取り出し、必死に額を拭っている。
……嘘だ。
さっきまで涼しい顔で「寒いですから」なんて喋っていたじゃないか。
俺がレイナに連絡しようとした瞬間からだ。
「……ふーん。暖房いらずだな、ナビは」
《そ、そうなんです。私が頑張れば車内も温まるんです……。だから早く送信ボタンを押してください! ご主人様が迷っていると、私の演算回路が焼き切れちゃいます!》
アンナは涙目で訴えてくる。
自分から「誘え」と言っておいて、いざ俺が実行しようとすると、分かりやすく動揺する。
まるで、「そうしなければならない」という命令と、「そうしたくない」という本音がぶつかり合って、ショート寸前になっているような。
そんなアンナの様子を見て、俺は少しだけ胸が痛んだ。
だが、ここで止めるのも変だ。
「分かったよ。ほら、送信」
俺は送信アイコンをタップした。
《……あ》
アンナの口から、小さな吐息のような声が漏れる。
直後、彼女はパッと明るい表情に切り替わった。
プロの切り替えだ。
《ナイスです、ご主人様。これで……レイナ様へのお礼ができますね》
その時だった。
カーステレオのスピーカーから、短く「プッ」という電子音が鳴る。
VICSの道路交通情報を受信した合図だ。
《……んっ、ぁ……っ♡》
アンナが、甘く切ない声を漏らした。
画面の中で、彼女の華奢な背中がビクンと大きく弓なりに反り、スカートの裾がふわりと舞い上がる。
頬が瞬く間に朱に染まり、とろんと潤んだ瞳が宙を泳ぐ。
太ももをギュッと擦り合わせ、何かを堪えるように身をよじるその姿は、ただのデータ受信とは到底思えないほど艶めかしかった。
今の高画質な姿だと、その反応はあまりに生々しくて、目のやり場に困る。
《……はぁ、はぁ……ご、ごめんなさい》
《その……情報が……太くて、大きくて……びっくりしちゃいました……///》
「言い方!! なんか別の想像するだろ、その表現!」
俺は思わず大声でツッコミを入れた。
いくら高画質になったからって、そのワードチョイスはアウトだろ。
《だってぇ……データのパケットサイズが本当に大きかったんですもん……///》
アンナは乱れた呼吸を整えながら、恥ずかしそうに上気した顔を手で扇いでいる。
……本当にただの渋滞情報なのか?
俺はため息交じりに、視線を逸らした。
《海沿いのルートに……うぅ、まだ身体の奥がジンジンします……大規模な渋滞情報が出ています。お迎えの時間に遅れないよう、裏道ルートを計算しておきますね》
「……おう、頼む」
ピロン、とスマホの通知音が鳴る。
レイナからの返信だ。
『いいよ。ちょうど私も、気分転換したかったところ』
「……OKだってさ」
《そうですか……! では、すぐにお迎えに行きましょう。ナビをセットします》
アンナが優雅に一礼すると、画面のレイアウトが切り替わる。
今まで画面の半分を占有していたアンナの姿が、シュッと四分の一ほどのサイズに縮小され、地図画面の右端に移動した。
走行モードの定位置だ。
その動きは相変わらずヌルヌルと滑らかで、完璧だった。
ただ、画面の右端にちょこんと立っている小さなアンナが、いつもより少しだけ、背中を丸めているような気がして。
俺は、アクセルを踏むのを一瞬だけ躊躇った。
※サーマル・ランナウェイとは、発熱がさらなる発熱を招く「正のフィードバック」によって温度制御が不能になる現象です




