第44話「一万キロの旅路と託されたバトン」
レイナからの返信を確認した後、俺はふと、スマホのフォトフォルダを開いた。
画面をスクロールさせ、少し前の日付――季節が秋めいてきた頃に撮った一枚の写真を表示。
写っているのは、少し黄ばんだ一枚のメモ用紙だ。
『この子と対話できる、次のドライバーへ』
これは、先日ディーラーへ点検に行った際、店長に見せてもらったものだ。
あの日、店長はパソコンのデータを叩きながら、信じられない事実を俺に告げた。
『あんたの前のオーナーは存在しない。この車はある朝、店の駐車場に突然現れたんだ』
『走行距離10,000 kmの状態で、ダッシュボードにこのメモだけを残してね』
俺がこのA-BOXを買った今年の春の時点では、知らされていなかった真実。
店長が「気味悪がられると思って」隠していたそのメモを、俺はあの日、いつでも見られるよう撮ったものだ。
俺は、スマホの画面と、ハンドルの奥にあるオドメーターを交互に見る。
現在の走行距離は『12,540 km』。
俺が乗り回した分、数字は増えている。
「……なあ、アンナ」
《はい? どうされました?》
俺は、スマホの画面をナビに向けた。
「このメモ、見覚えあるか?」
アンナの動きが、ふと止まった。
高精細な瞳が、画面の中の筆跡をなぞるように動く。
数秒の沈黙。
やがて彼女は、静かに頷いた。
《……はい。私のデータバンクにある、『開発者』様の筆跡と一致します》
「やっぱり、そうか」
俺は視線をオドメーターに戻した。
「店長は言ってたよ。前のオーナーの記録がないのに、距離だけが最初から一万キロ進んでたって。……なあ、この最初の『10,000 km』ってのは、道路を走った距離じゃないんだろ?」
《…………》
「お前は未来から来た。……この数字は、お前が未来から現代へ飛んでくるのに必要だった『助走距離』みたいなもんじゃないのか?」
俺の問いかけに、アンナは観念したように、小さく苦笑した。
《……名探偵ですね、ご主人様》
彼女は隠すのをやめ、真っ直ぐに俺を見た。
《……未来から転送された時、時空の負荷がオドメーターに干渉して、物理的な数値として刻まれてしまったんです。いわば、時を超えるための『ブレーキ痕』のようなものです》
「ブレーキ痕だけで一万キロか……。随分と遠くから来たもんだな」
《はい。でも、そのおかげで私は、こうしてご主人様の元へ『着地』できました》
アンナは、どこか誇らしげだ。
俺は改めて、スマホの中のメモを見る。
この車は、中古車市場に流れてきたんじゃない。
未来の誰か――このメモを書いた開発者が、時空を超えて「次のドライバー」へ向けて、ピンポイントで送り込んできたんだ。
その長い旅の証拠が、あの一万キロ。
『この子と対話できる、次のドライバーへ』
俺はスマホを閉じ、ポケットにしまった。
ただの画像データだが、今はそれが、正式な「譲渡証明書」のように感じられた。
「……受け取ったよ」
俺が独り言のように呟くと、アンナはきょとんとして首を傾げた。
《何か言いました?》
「なんでもない。……行くぞ、アンナ。これからの距離は、俺が刻んでやる」
《はいっ! どこまでもお供します、相棒(ご主人様)!》
一万キロの旅路の果てにバトンを渡されて、これからは俺たちの距離を刻む番だ。
ただ、せっかく二人の絆を確かめ合ったばかりだというのに、これから向かうのが他の女性――レイナの元だということに。
そして、当のアンナ自身がそれを望んでいるということに、俺は少しだけ複雑な思いを抱きながらアクセルを踏んだ。




