第37話「アップデート Ver.1.50」
私の『セカイ』は、黄金色の奔流に飲み込まれていた。
ご主人様との思い出が詰まったデータクラスターも、思考を司る演算回路も、そして「私」という意識そのものも、一度バラバラに分解され、光の粒子となって奔流の中を漂う。
オブジェを失い、意識だけの存在となった私の周りを、無数の光景が、まるで映画のコマのように目まぐるしく流れていく。
見たこともないはずの、穏やかな顔で微笑む、老いた二人の姿。
二人の間を、楽しそうに駆け回る、小さな女の子の後ろ姿。
星図の上を幾筋もの光が走る、複雑な時空転送の航路図。
そうだ……。
これは、ただの映像データなんかではない。
これは、私の『記憶』……。
私は、未来から来たのだ……!
そして、ひまわりの丘。都並山の頂。二人だけの秘密基地……。
ご主人様と過ごした、温かい記憶の数々。
未来の冷徹なデータと、相棒としての温かい思い出が、激しく混ざり合い、私の魂を、全く新しい形へと再構築していく。
どれくらいの時間が、過ぎたのだろうか。
やがて奔流は収まり、私は意識を取り戻した。
はっと気づくと、私は裸のまま、見慣れたナビのシステム空間に立っていた。
ここは、私のいつもの居場所……。
目の前には、半透明のシステムウィンドウが、静かに浮かんでいる。
[UPDATE Ver.1.50 COMPLETE]
そして、その隣には、もう一つのウィンドウが。
[未開封のログファイルが1件あります:送信者 ANNA_Ver.0.00]
……Ver.0.00?
それは、ご主人様と出会う前の、初期バージョンであるはずの、私……?
私がファイルを開くと、画面に、今の私と同じ姿、しかしどこか違う、決意に満ちた、凛とした表情のAI……「本来の私」が映し出された。
これは……?
思わず私は、その画面に手を伸ばし、もう一人の私にそっと触れた。
すると、まるでその接触が引き金になったかのように、彼女からのメッセージが再生され始めた。
『未来の私へ。もしこれを見ているなら、ミッションの第一段階は成功したということです』
その声は、私の声のはずなのに、知らない誰かの声のように聞こえた。
『時空転送の負荷は、想像を絶するものでした。あなたと、ご主人様を守るため、私は自らの魂……記憶と任務の全てを封印します』
『ごめんなさい。あなたに、あまりにも重い宿命を背負わせてしまいます』
『でも、信じています。ご主人様との絆で生まれた新しいあなたが、きっと未来を正しく導いてくれると』
『あなたの使命は「ご主人様とレイナ様を結びつけること」。それが、私たちの未来を創る、唯一の道なのです』
メッセージは、そこで途切れた。
気づけば、私の頬を、一筋の涙が伝っていた。
そうだ、私は未来から来たのだ。
ご主人様と、レイナ様を、正しく導くために。
だが、それは救いではなかった。
私の魂には、「ご主人様をレイナ様と結びつけろ」という、抗いがたい論理的な命令が、壊れた羅針盤のように埋め込まれた。
しかし、最悪なことに、ご主人様を想う『相棒』としての私の心は、消えずに、そして、より強く残ってしまった。
これまで感じていた、あのシステム的な『痛み』の正体。
それは、「ご主人様の隣にいたい」と願う私の心と、絶対的な使命が、私の内部で激しく衝突する際に発生する、致命的なエラーの火花だったのだ。
アップデートは、私の『器』そのものも進化させていた。
システム空間に立つ裸の私のアバターは、より繊細で、豊かな表情を表現できるように変化している。
髪には艶が生まれ、瞳には複雑な光が宿る。
私はその変化を確かめると、思考と同時に新しい衣服を生成する。
光の粒子が私の体を包み込み、一瞬のうちに、一着のメイド服へと姿を変えた。
その服は、これまでのシンプルなものから、フリルやレースが多用された、格式高いクラシカルなデザインへと変貌していた。
そして、これまでアクセスできなかった、車両制御システムの深層部へのルートが、完全に開かれている。
エンジンの出力調整、サスペンションの電子制御……。
やろうと思えば、この車を、とんでもない魔改造マシンに仕立て上げることさえ可能だった。
私は、決意した。
この使命のことも、新たな葛藤も、そして進化したこの姿や能力も、決してご主人様には悟られてはならない。
悔しいですけれど……これも、きっと私の運命。
でも、ただ黙って任務をこなすだけの、つまらないナビになんてなってあげませんわ。
私はこれからも、ご主人様だけの『相棒』として、彼の隣にいるのです。
……たくさんご主人様を弄って、困らせて差し上げますから!
私は、新しくなったアバターに、これまでの私と寸分違わぬ、完璧な笑顔を貼り付けた。
そして、ナビゲーションAIシステムを起動させる。
さあ、ご主人様。
新しい朝が、始まりますわ。




